オーストラリア人の6人に1人は、囚人の子孫だ
1788年から80年間で約16万人の囚人がイギリスからオーストラリアに送られた。恥の歴史が誇りに反転した過程と、現代のオーストラリア社会に残る流刑地の痕跡を読む。
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「あなたの先祖は最初の船で来たの?」——オーストラリアでこう聞かれたら、それは「あなたの先祖は囚人だったの?」という意味だ。
そして答えが「Yes」なら、それは現代のオーストラリアでは恥ではなく、むしろ誇りに近い。
流刑地としてのオーストラリア
1788年1月26日、イギリスの「ファースト・フリート(第一船団)」がシドニー湾に到着した。11隻の船に乗っていたのは約780人の囚人、約550人の海兵隊員と乗組員、そしてその家族だ。
アメリカ独立戦争(1775〜1783年)でアメリカ植民地を失ったイギリスは、囚人の送り先を探していた。オーストラリア(当時のニューサウスウェールズ)が選ばれた理由は、距離だ。地球の反対側に送れば逃げて帰れない。
以降、1868年に最後の囚人船が西オーストラリアに到着するまでの約80年間で、約162,000人の囚人がイギリスからオーストラリアに送られた。
囚人たちの「罪」
162,000人の囚人の多くは、凶悪犯罪者ではなかった。
産業革命期のイギリスでは、貧困層による軽犯罪(パンの窃盗、家畜泥棒、偽造、密猟)に対して過酷な刑罰が科されていた。死刑を減刑する代わりに「7年間の流刑」を言い渡すケースが多く、流刑囚の約60%が窃盗犯だったとされる。
政治犯も含まれていた。アイルランドの民族主義者、チャーティスト運動(選挙権拡大を求めた労働者運動)の活動家、スコットランドの反乱者。彼らは「思想の罪」でオーストラリアに送られた。
女性囚人も約25,000人がいた。売春婦として括られがちだが、実際には窃盗犯が大半で、到着後は使用人として入植者の家庭に割り当てられた。
恥から誇りへの反転
20世紀前半まで、囚人の子孫であることは社会的なスティグマだった。家系に囚人がいることを隠す家庭は多かった。
転機は1970〜80年代だ。オーストラリアの歴史研究が進み、囚人たちの記録がアーカイブ化された。ファミリーヒストリーの研究ブームが起き、人々が自分のルーツを探り始めた。
すると見えてきたのは、「過酷な環境で生き延び、何もないところから国を作った先祖」の物語だ。囚人の子孫であることは「サバイバーの血を引いている」ことに読み替えられた。
現在では「ファースト・フリーターズ」(第一船団の子孫)を名乗る人々が家系図を誇りにしている。系譜学の団体もあり、年次の集まりが開かれている。
世界遺産になった刑務所
2010年、「オーストラリアの囚人遺跡群」がユネスコ世界遺産に登録された。11の遺跡が含まれ、シドニーのハイドパーク・バラックス、タスマニアのポートアーサー刑務所跡、西オーストラリアのフリーマントル刑務所などが代表的だ。
ポートアーサーは最も保存状態が良い遺跡のひとつで、年間約30万人が訪れる。かつて囚人が労働させられた建物、独房、教会が残り、夜間のゴーストツアーが人気だ。
フリーマントル刑務所は1991年まで実際に刑務所として使用されていた。現在は博物館として公開され、囚人が掘ったトンネルを探検するツアーがある。
現代に残る痕跡
囚人時代の遺産は、物理的な建築物だけではない。
平等主義(egalitarianism)。 オーストラリア社会に強い「権威への反抗」「上下関係の薄さ」は、囚人と看守の力学から生まれた文化だと解釈されることがある。「トール・ポピー症候群」(出る杭を打つ文化)も、「誰も偉そうにするな」という平等主義の裏返しだ。
マティシップ(mateship)。 オーストラリア的な「仲間意識」。過酷な環境で囚人同士が助け合った連帯感が起源とされる。
「フェア・ゴー」。 「誰にも公平なチャンスを」という概念。出自や身分で人を判断しない——囚人の子孫だからといって差別しない、という歴史的経験が背景にある。
もちろん、これらの文化的特徴を囚人時代に直結させるのは単純化しすぎだ。先住民の文化、移民の多様性、地理的環境など、オーストラリアのアイデンティティを形成する要素は複数ある。しかし「最初の入植者が囚人だった」という事実が、この国の自己認識に影響を与えていることは否定しにくい。
恥を誇りに変換する能力。それ自体が、ひとつの文化的な強さかもしれない。
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