角に一軒あった店が消えていく——ミルクバーの衰退が郊外に残したもの
かつてオーストラリアの住宅街には、必ず角に小さな個人商店があった。ミルクバーと呼ばれたその形態が姿を消したことで、郊外の生活から何が失われたか。
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住宅街を歩いていると、明らかに家ではなかった家に出会う。通りの角に建ち、正面が不自然に大きく開いていて、いまはカーテンが引かれている。壁の上のほうに、塗り潰しきれなかった文字の影が残っている。
かつてミルクバー(milk bar)と呼ばれた店だ。牛乳、新聞、パン、菓子、飲み物、簡単な軽食。住宅街の角ごとにこれがあった時代がある。
移民が始めた商売だった
この業態を語るとき、しばしば触れられるのが、営んでいた人たちの出自だ。20世紀の移民、特に南欧やギリシャ、レバノンなどからの移民が、この商売を足がかりにした例が多いとされる。
理由は構造的だ。この商売は、高度な英語力を必ずしも必要としない。専門資格も要らない。開業に必要な資本が比較的小さい。そして、家族で長時間働くことで採算を取れる。
新しく来た人間が、限られた資源で市場に参入できる隙間。その隙間に、この業態がぴったりはまった。同じ構造は世界中で見られる。移民が特定の小売業や飲食業に集中する現象は、文化的な適性ではなく、参入障壁の低さで説明されることが多い。この国のカフェ文化が移民の手で作られたのも、同じ経路をたどっている。
何が終わらせたか
この形態を衰退させた要因は、ひとつではない。
大型スーパーマーケットの拡大が最も大きい。品揃えと価格で正面から勝てなくなった。加えて、ガソリンスタンドの併設店(コンビニ形態)が、深夜営業と立ち寄りやすさという、ミルクバーの残っていた強みを奪った。
営業時間の規制緩和も効いた。かつては大型店の日曜・夜間営業に制限があり、その隙間で小さな店が生きていた。規制が緩むと、その隙間が消える。
そして、生活そのものが変わった。牛乳の宅配が減り、新聞の購読が減り、車での買い物が当たり前になった。歩いて行ける距離に店があることの価値が、相対的に下がった。
失われたのは商品ではない
代替品はある。品揃えも価格もスーパーのほうが優れている。それでも、この業態の消滅を惜しむ声が根強くあるのは、店が売っていたものが商品だけではなかったからだ。
角の店は、住宅街における「用がなくても行ける場所」だった。子どもが小銭を握って一人で行ける距離にあり、店主が近所の子どもの顔を覚えていて、親が「あそこまでなら一人で行っていい」と言える範囲にあった。
社会学でいう「第三の場所」——家でも職場でもない、人が滞留する場所——の最小単位が、住宅街の角にあった。それが消えると、住宅街は純粋に住宅だけの空間になる。家から出て、車に乗り、目的地に着くまで、誰にも会わない。
この「誰にも会わない」状態を、いまの住宅街は別のもので補っている。週に一度、通りにゴミ箱が並ぶ夜がその代表だ。角の店が消えた後、隣人の顔を見る機会は、そのくらいしか残っていない。
それでも残っているもの
完全に消えたわけではない。地方の町や、車が使いにくい古い街区では、同種の店が今も営業している。呼び名は地域によって変わり、コーナーショップ、デリなどとも呼ばれる。
そして興味深いことに、近年になって別の形で回帰の兆しもある。都心の高密度な地区で、小規模な食料品店やカフェ併設の店が成立するようになった。人口密度が上がり、車を使わない層が増えると、歩いて行ける店の経済性が戻ってくるからだ。
住宅街の密度と、小さな店の生存可能性は、かなり直接的に結びついている。密度が下がれば店が消え、上がれば戻る。
そして密度だけでなく、道路の形も効いている。格子状の街区では、角という角が店の候補地になる。曲線と行き止まりで組まれた郊外には、そもそも人が通りかかる角が少ない。都市計画が、店の立地可能性を先に決めている。
在住者の目で見ると
日本から来ると、この「歩いて行ける店がない」という状態は、最初かなり不便に感じる。醤油を切らしたから買いに行く、という行動が成立しない地域が普通にある。車を出すか、諦めるかになる。
逆に言えば、住む場所を選ぶときに「歩いて行ける店があるか」を条件に入れると、生活の質がかなり変わる。家賃はその分高くなる傾向があるが、車の維持費や、買い物にかかる時間と比べると、必ずしも割高とは言えない場合がある。
物件を見に行ったら、車を停めて半径数百メートルを歩いてみてほしい。いま何があるか。そして、正面の開口が広すぎる家が角に建っていないか。その痕跡の多さは、そこがかつてどれだけ歩ける街だったかの記録でもある。痕跡だけあって店がないなら、その街は歩ける形を失ったということだ。