オーストラリアのウサギ防止柵は全長3,256km。生態系と農業の戦争
1859年に24羽のウサギを放したことが、大陸規模の生態系崩壊を引き起こした。その対策として建設された「ウサギ防止柵」の全貌と、侵略的外来種という問題の本質を読む。
1859年10月のある朝、ヴィクトリア州の農場主トーマス・オースティンが自分の土地に24羽の野ウサギを放した。イギリスから持ち込んだウサギだ。客人が狩りを楽しめるようにという理由だったと伝えられている。
この決断が、オーストラリアの生態系を永久に変えた。
ウサギには天敵がいなかった。気候は温暖で、草は豊富だった。1870年代には年間200万羽が駆除されていたにもかかわらず、個体数の増加は止まらなかった。生物学的に言えば、捕食圧がゼロに近い状況で指数関数的な増殖が起きた——これが大陸規模で展開された。
柵という「物理的な解答」
1901年、西オーストラリア州政府は王立委員会を設置してウサギ問題を調査し、答えは「大陵を横断する柵を建てる」というものだった。
1907年に完成した第1フェンスは南海岸から北西海岸まで1,824km。建設開始から完成まで6年かかり、当時「世界最長の柵」と呼ばれた。その後、第2フェンス(1,166km)と第3フェンス(257km)が追加され、3本の合計全長は3,256kmに達した。
比較のためにいうと、日本列島の本州を縦断する最長距離(青森〜下関)が約1,200km程度だ。その2.7倍の柵が、砂漠と低木地帯を貫いて建てられた。
柵は機能したか
正直に言えば、完全には機能しなかった。柵が完成した時点で、すでにウサギは柵の西側にも侵入していた。1901年の建設開始決定から完成まで6年かかる間に、ウサギの方が先に西に広がっていた。
それでも柵は一定の役割を果たした。柵の東側(農業地帯)から西側(畜産地帯)への大規模な再侵入を遅らせる「防波堤」として機能し続けた。今日でも西オーストラリア州農業省が柵のメンテナンスを続けている。
ウサギは1901〜10年代のピーク時に年間100億ドル(現在価値換算)相当の農業被害をもたらしたと推定されている。牧草地の破壊、在来植物の絶滅、土壌の崩壊。これだけの規模になると、柵というアナログな解決策は確かに一定の経済的合理性を持っていた。
1950年代:ウイルスという生物兵器
柵だけでは限界があった。1950年、オーストラリアはウサギに対して「ウイルス兵器」を投入する決断をした。粘液腫ウイルス(Myxoma virus)の意図的散布だ。
結果は劇的だった。感染初期の死亡率は99.8%。推定6億羽いたウサギの個体数が、わずか数年で数億羽単位で減少した。農業地帯の植生が回復し、在来の野生動物が戻り始めた。
ただし、進化は止まらない。10〜20年のうちに、ウイルスへの耐性を持つウサギが出現した。1995年にはカリシウイルス(RHDV)が追加導入され、2017年には新型株(RHDV2)が散布されている。ウサギはその都度、耐性を獲得しながら生き残り続けている。
これはまるで抗生物質耐性菌の問題と同じ構造だ。「殺す側」が技術を上げれば、「殺される側」が適応して進化する。完全な解決は存在しない。
カンガルーのDNAを変えた柵
2023年、英国自然史博物館(Natural History Museum)が興味深い研究を発表した。ウサギ防止柵がカンガルーの身体的な進化に影響を与えていた、というものだ。
柵によって分断されたカンガルーの個体群は、100年以上にわたって繁殖が隔離され、東西で異なる方向に進化していた。足の形態、体サイズ、逃走行動に微小な差異が生まれていた。1本の柵が、哺乳類のDNAを変えるほどの生物学的隔壁になっていたということだ。
在住者が「外来種」問題に触れるとき
オーストラリアに住んでいると、「ウサギ」は単に可愛い動物ではなく、国家的課題として認識されていることに気づく。農村部では今でも駆除が続けられており、ウサギへの餌やりや不適切な飼育は罰則の対象になる州もある。
南オーストラリア州や西オーストラリア州では、ペットとしてのウサギ飼育が禁止または制限されている。「なぜウサギを飼えないの?」という疑問に対する答えは、3,256kmの柵の歴史にある。
1859年の「24羽」が今もオーストラリアの農業政策・生態系管理・移民法(外来生物の持ち込み規制)に影を落としている。一つの選択が大陸の運命を変える——自然界では、そのスケールの失敗が起きる。