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夜10時の上司のメッセージに、返信しない権利——オーストラリアが法律に書いた「つながらない権利」

オーストラリアでは2024年8月から、勤務時間外の仕事の連絡を見ない・返さない権利が法律で定められた。2025年8月には小規模事業者にも拡大。日本の本社と時差のなかで働く人にとって、この権利は何を意味するか。

2026-11-02
労働法働き方制度オーストラリア

この記事の日本円換算は、1AUD≒110円で計算しています(2026年10月時点)。為替は変動するので、現地通貨(AUD)の金額を基準にしてください。

金曜の夜10時、スマホが光る。上司からのメッセージで、「月曜の資料、ちょっと見ておいて」。

オーストラリアでは、これを見なくてもいい、返さなくてもいい、ということが法律に書かれています。

2024年8月26日、公正労働法(Fair Work Act 2009)に「つながらない権利(right to disconnect)」が加わりました。従業員15人以上の事業者で働く人にまず適用され、2025年8月26日からは15人未満の小規模事業者にも広がっています。

条文が言っていること

規定の中身はシンプルです。

従業員は、勤務時間外に、雇用主からの連絡や連絡の試みを監視すること、読むこと、返答することを拒否できる。ただし、その拒否が「不合理(unreasonable)」な場合を除く。

対象は上司からの連絡だけではありません。顧客や取引先など、第三者からの仕事関係の連絡も含まれます。

法律は、連絡を禁止したわけではありません。上司が夜にメッセージを送ること自体は違法ではない。変わったのは受け手の側で、見ない・返さないことに正当性が与えられたという点です。

送信を止めるのではなく、受信を義務から外す。電話の発明以来、職場と家庭のあいだにあった「つながっていて当然」という前提を、受け手の側からほどく設計です。

「不合理な拒否」をどう判断するか

すべての連絡を無視していいわけではありません。法律は、拒否が不合理かどうかを判断するときの考慮要素を挙げています。

  • 連絡の理由と緊急性
  • 連絡の方法と、それがどれだけ生活を妨げるか
  • 時間外に対応することへの対価が支払われているか
  • その従業員の役割と責任の重さ
  • 家族の世話などの個人的な事情

法令によって連絡が義務づけられている場合(安全上の通報など)に応じないのは、常に不合理とされます。

つまり、待機手当をもらっている当番のエンジニアが緊急呼び出しを無視するのと、時給で働くカフェのスタッフが翌週のシフトの相談に夜中に返事をしないのとでは、評価がまったく違います。

最初の判断が示したこと

2026年9月、南オーストラリア州の雇用審判所(South Australian Employment Tribunal)で、この権利をめぐる最初期の判断が出ました。

アデレードの美容室で働く2人の見習いが、勤務時間外にTikTokやSnapchatで仕事の連絡を受け、うち1人は連休中に店の電話を無給で持ち帰るよう求められた、という事案です。

審判所は、連絡を「不快で立ち入ったもの」と評価しながらも、違反は認めませんでした。2人は連絡を断つことを妨げられておらず、返さなかったことで不利益を受けてもいなかったからです。審判所は、返信しなかったことで何らかの結果が生じていれば、結論は違っていた可能性を示唆しています。

この判断から見えるのは、法律が守っているのが「連絡が来ないこと」ではなく、返さなかったことで罰せられないことだという点です。

時差のなかで働く日本人にとって

この権利が、日本とつながって働く人にとって特に意味を持つのは、時差があるからです。

シドニーやメルボルンは、夏時間の時期には日本より2時間進み、それ以外の時期は1時間進んでいます。国内に複数の時間帯があるうえ、パースは日本より1時間遅れています。日本の本社が夕方に送った連絡は、オーストラリア東部では夜に届きます。

日本の職場の感覚では、夜でも上司や本社からの連絡には目を通すのが当然、ということがよくあります。オーストラリアの法律は、この感覚とずれています。

現地採用で働く人は、オーストラリアの労働法上の従業員として、この権利の対象になります。カジュアル雇用やワーキングホリデーで働く人も、雇用されている従業員であることに変わりはありません。

日系企業の現地法人で管理職をしている人は、逆の立場にもなります。部下に時間外の連絡をするとき、それが緊急のものか、対価が払われている業務か。本社からの依頼をそのまま夜に転送する前に、翌朝で足りるかを考える必要が出てきました。

制度より先にあった文化

この権利は、オーストラリアにとって唐突なものではありませんでした。

この国には、smoko(スモーコー)と呼ばれる休憩の習慣があり、仕事を区切って休むことが職場の文化として根づいています。日曜に働けば時給が上がる仕組みも、「時間外は特別な時間だ」という考え方を賃金の形で表したものです。

つながらない権利は、こうした考え方を、スマホの時代に合わせて書き直したものと見ることができます。勤務時間の外に、仕事の連絡が入り込まない領域を確保する。

紛争になった場合は、公正労働委員会(Fair Work Commission)に申し立てができ、委員会は連絡をやめるよう命じる命令(stop order)を出せます。各産業の現代アウォード(modern awards)にも、この権利に関する条項が加えられています。

「既読」の意味が変わる

メッセージアプリの「既読」表示は、受け手に返事の義務を感じさせる仕組みとして働いてきました。読んだことが相手に伝わる以上、返さないことは無視になる。

オーストラリアの法律は、この連鎖の最初の一歩、「読む」こと自体を義務から外しました。読まなくてもいい。読んでも返さなくてもいい。

上司を下の名前で呼ぶフラットな職場と、時間外の連絡を断れる法律。この二つは、上下関係が薄いことと、仕事と生活の境界が濃いことが、同じ社会のなかで両立している様子を示しています。

夜10時に光るスマホを伏せて置けるかどうか。法律が後ろにあると知っているだけで、その手の動きは少し変わるのかもしれません。

出典

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