玄関に貼られた赤い手のマーク——カナダの「逃げ込める家」制度の話
かつてカナダの住宅街でよく見られた赤い手のステッカーは、子どもが緊急時に駆け込める家を示す「ブロックペアレント」の印だった。地域の安全を住民が担う仕組みと、その衰退から見える社会の変化を読む。
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カナダの古い住宅街を歩いていると、ときどき玄関の窓に赤い手のひらのマークが貼られた家を見かける。観光客には意味不明だが、ある世代のカナダ人にとっては一目で分かる。「困ったらここに駆け込んでいい」という印だ。
これは「ブロックペアレント(Block Parent)」と呼ばれる仕組みのステッカーだ。登下校中の子どもが、知らない人に追われたり、怪我をしたり、トイレに行きたくなったりしたとき、安心して助けを求められる家。住民が自発的に「うちは逃げ込んでいい家ですよ」と表明する制度である。
警察ではなく住民が担う安全
この制度の核心は、安全を行政だけに委ねないという発想にある。参加する家庭は身元確認を経て登録され、子どもが駆け込んできたら一時的に保護し、必要なら警察や親に連絡する。報酬はない。地域の大人が地域の子どもを見るという、素朴な相互扶助だ。
日本の「子ども110番の家」とよく似ている。違うのは、カナダではこれが1960年代から全国規模で広がり、赤い手のマークが街の風景の一部になっていたことだ。
なぜ姿を消しつつあるのか
ところが近年、このステッカーを見かける機会は減った。理由は一つではない。共働き家庭が増え、日中家にいる大人が少なくなった。携帯電話が普及し、子どもが直接親に連絡できるようになった。そして、見知らぬ家に子どもを上げること自体への警戒感も強まった。
安全を高めるはずの仕組みが、安全への意識の変化によって役目を終えていく——この逆説が興味深い。社会が豊かに、そして慎重になるほど、顔の見える相互扶助は居場所を失っていく。便利さと信頼は、必ずしも一緒に育つわけではない。
残った痕跡が語ること
今でも一部の地域では制度が続いており、古い家の窓に色あせた赤い手が残っていることがある。それは、かつて近所の大人が子ども全員を「自分たちの子」のように見ていた時代の化石のようなものだ。
カナダに住む日本人として、この赤い手のマークを知っておくと、街の見え方が少し変わる。テクノロジーが個人を強くした分、地域というまとまりは静かに溶けてきた。その変化が、住宅街の小さなステッカーに刻まれていると考えると、見過ごしていた風景に奥行きが出る。