日系カナダ人の強制収容——消された歴史と、残った人々の記憶
第二次世界大戦中、カナダ政府は2万人以上の日系人を強制収容した。財産は没収され、共同体は解体された。この歴史は1988年に公式謝罪されたが、痕跡はBC州各地に残っている。
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バンクーバーに着いて、日系の苗字を持つ人と仕事をすることになる。「どうして日本語が話せないんですか?」という疑問を感じる前に、少し歴史を知っていた方がいい。
日系人のBC移住の歴史
日本からブリティッシュコロンビア州への移住は19世紀末に始まった。漁師・農業従事者・鉄道建設労働者として多くが渡り、1930〜40年代には日系人コミュニティは約2万3000人規模になっていた(推定)。バンクーバーのパウエルストリート周辺は「リトルトーキョー」として栄えていた。
強制収容(1942〜1949年)
1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃後、カナダ政府はBC州に住む日系人全員(カナダ市民権を持つ人も含む)を「安全保障上の脅威」として内陸の収容所に強制移住させた。
家・土地・漁船・財産はすべて没収・強制売却された。家族は強制的に離散させられた。収容所での生活は劣悪で、特に子どもたちは教育を中断された。
戦後も帰還は制限され、BC州への帰還が許可されたのは1949年まで待たなければならなかった。
1988年の謝罪
カナダ連邦政府はブライアン・マルルーニー首相の下、1988年に正式謝罪と補償(被害を受けた存命者1人あたり1万2000カナダドル)を行った。アメリカが日系アメリカ人への謝罪を行ったのと同年だ。
謝罪の遅さ(約40年)は批判の対象にもなるが、国家が公式に謝罪したという事実は現在の日系カナダ人コミュニティにとって重要な意味を持つ。
現在の日系コミュニティ
現在の日系カナダ人コミュニティは、強制収容を生き延びた一世・二世の子孫(三世・四世・五世)と、戦後に移住した日本人とが混在する。日本語が話せない「日系人」が多いのは、この歴史的断絶の産物だ。
バンクーバーには日系センター(JCCA)があり、文化・歴史の継承活動が続けられている。パウエルストリートフェスティバルは毎年夏に開かれる日系文化祭で、日本語が話せない日系人も多く参加する。
この歴史を知ることは、カナダで日本人として生活することの意味を少し深くしてくれると思う。