「Sorry」が法的に過失を認めたことにならない国——カナダの謝罪法という発明
カナダでは交通事故や医療ミスで「Sorry」と言っても法廷で過失の証拠にならない。Apology Actという法律の背景と、カナダ社会の謝罪文化を在住者目線で解説。
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カナダ人は「Sorry」をよく言う。ぶつかった方もぶつかられた方もSorry。ドアを開けてあげてもSorry。エレベーターで先に降りるときもSorry。
これを「カナダ人は礼儀正しい」で片付けるのは簡単だが、この「Sorry」にはもうひとつの顔がある。カナダには「Apology Act(謝罪法)」という法律がある。謝罪を法廷で過失の証拠として使うことを禁じる法律だ。
Apology Act——謝罪は過失の自認ではない
BC州が2006年に初めてApology Actを制定した。その後、オンタリオ州、アルバータ州、サスカチュワン州など多くの州で類似の法律が成立している。
法律の骨子はシンプルだ。
- 謝罪(apology)は、民事訴訟において過失または責任の承認とみなさない
- 謝罪は証拠として裁判所に提出できない
- 謝罪には遺憾の表明(expression of sympathy or regret)を含む
つまり、交通事故の現場で「I'm sorry」と言っても、法廷でそれを「過失を認めた」と主張することはできない。
なぜこの法律が生まれたか
アメリカでは「事故現場で絶対にSorryと言うな。弁護士が来るまで何も話すな」が常識だ。謝罪が法廷で過失の自認として使われるリスクがあるからだ。
この「謝罪できない社会」は、人間関係を壊す。医療ミスで患者が亡くなった場合、医師が遺族に「申し訳ない」と言えない。言えば訴訟で不利になるからだ。結果として遺族は「医師が謝罪すらしなかった」と感じ、より強い怒りで訴訟に踏み切る。
カナダのApology Actは、「謝罪と法的責任を切り離すことで、人間として当たり前のコミュニケーションを可能にする」という設計思想で作られている。
医療分野での効果
Apology Actの効果が最も顕著に現れたのは医療分野だった。医師が患者や遺族に対して率直に謝罪できるようになったことで、一部の調査では医療訴訟の件数や和解金額が減少したという報告がある。
「申し訳ない」と言ってもらえた遺族は、感情的な怒りが和らぎ、訴訟ではなく調停(mediation)で解決する傾向が見られたという。
日常の「Sorry」文化
法律とは関係なく、カナダの日常における「Sorry」の頻度は世界的に見ても異例だ。
スーパーの通路ですれ違うときにSorry。相手が自分の足を踏んだのに、踏まれた側がSorry。会議で発言を求めるときに「Sorry, but...」。天気が悪いことについてSorry。
日本人の感覚では「すみません」に近いが、日本の「すみません」よりもさらに軽い。言語学的には「相手の存在を認めるシグナル」として機能しており、本当に謝っているわけではない場合が多い。
在住外国人としてこの文化に馴染むコツは、深く考えずにSorryを返すことだ。相手がSorryと言ったら、自分もSorryと返す。それがカナダの社会的プロトコルだ。
謝罪を法律で保護し、日常では呼吸のようにSorryを交わす。この国の「Sorry」は、責任を認める言葉ではなく、社会の潤滑油として設計されている。