スイスの乳製品産業——牛の数より規制の数が多い国の酪農
スイスには約55万頭の乳牛がいる。だがスイスの酪農を特徴づけているのは牛の数ではなく、品質管理の厳しさと補助金の構造。在住者の日常から見えるスイスの乳製品の実態を解説します。
この記事の日本円換算は、1CHF≒170円で計算しています(2026年4月時点)。為替は変動するので、現地通貨(CHF)の金額を基準にしてください。
スイスの牛乳価格は1リットルあたり約1.6CHF(約272円)。日本のスーパーで牛乳が200円前後であることを考えると、高い。だが値段の裏側を見ると、この差には理由がある。
なぜスイスの乳製品は高いのか
スイスの酪農は「山岳農業」の典型だ。アルプスの傾斜地で放牧する農家が多く、平地の大規模農場と比べると生産効率は低い。1農家あたりの乳牛数は平均約25頭。ニュージーランドやオーストラリアの大規模農場が数百〜数千頭を飼育しているのと比べると、規模が桁違いに小さい。
連邦政府は酪農家に直接支払い(Direktzahlung)を行っており、農家収入の約40〜50%が補助金という構造だ。これは「景観の維持」「食料安全保障」「山岳地域の人口維持」という複合的な目的を持つ政策で、単なる農業保護ではない。
アルプスの移牧(Alpaufzug)
毎年5〜6月になると、低地の牧場から高地のアルプ(夏の放牧地)へ牛を移動させる「アルプアウフツーク」が行われる。牛の首に大きなカウベルをつけ、花飾りで飾り立てて行進する光景は、スイスの代表的な文化行事だ。
9月になると逆に山を下りる「アルプアプツーク(Alpabzug)」がある。この移牧期間中に高地で作られるチーズが「アルプケーゼ(Alpkäse)」と呼ばれ、通常のチーズより高値で取引される。
これは観光用のパフォーマンスではない。高地の草を食べた牛の乳は脂肪分やカロテンの含有量が異なり、チーズの風味に実際に影響する。
チーズの多様性
スイスでは450種類以上のチーズが生産されている(Switzerland Cheese Marketing発表)。代表的なものはエメンタール、グリュイエール、アッペンツェラー、テット・ド・モワンヌ、ヴァシュラン・モン・ドール。
グリュイエールはAOP(原産地呼称保護)の対象で、フリブール州グリュイエール地方の指定された牧場の牛乳だけを使い、伝統的な製法で作られたものだけが「グリュイエール」を名乗れる。スーパーでの価格は100gあたり約2.5〜3.5CHF(約425〜595円)。
在住者の冷蔵庫
スイスに住んでいると、冷蔵庫にチーズが常に3〜4種類ある生活になる。パンにチーズを乗せるだけの朝食が成立するのは、チーズの質が高いからだ。
牛乳も種類が多い。通常の全乳(Vollmilch)のほか、マウンテンミルク(Bergmilch)やオーガニック(Bio)の区分があり、それぞれ価格帯が異なる。Biomilchは1リットルあたり約1.9CHF(約323円)。
ヨーグルトも地元ブランドが強い。Emmi(エミー)はスイス最大の乳製品メーカーで、スーパーのヨーグルト棚の多くを占めている。日本のヨーグルトに比べると酸味が控えめで、果物入りのバリエーションが豊富だ。
乳製品を日常的に摂る人にとって、スイスの食環境は恵まれている。逆に乳糖不耐症の人にとっては、乳製品文化の圧がやや強い環境かもしれない。