黒い森(シュヴァルツヴァルト)——ドイツ人の森への執着が生んだ環境意識
ドイツ南西部の黒い森(シュヴァルツヴァルト)の歴史と文化。ドイツ人が森に持つ特別な感情と、それが環境政策に与えた影響を解説。
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ドイツの国土に占める森林面積は約32%。日本の約67%と比べると半分以下だ。にもかかわらず、ドイツ人の「森への感情的な執着」は日本人のそれをはるかに上回る。森が政治を動かし、法律を変え、政党すら生み出した国——その象徴がシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald、黒い森)だ。
シュヴァルツヴァルトの地理
バーデン=ヴュルテンベルク州の南西部、フランスとスイスとの国境近くに広がる山岳森林地帯。南北約160km、東西約60km、面積は約6,000km²。東京都の約2.7倍に相当する。
最高峰はフェルトベルク(Feldberg、1,493m)。密集したトウヒやモミの針葉樹が光を遮り、森の中が暗いことから「黒い森」の名がついた。グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」「赤ずきん」の舞台イメージはこの地域の森から来ている。
カッコウ時計(Kuckucksuhr)の発祥地でもあり、シュヴァルツヴァルトのキルシュトルテ(ブラックフォレストケーキ)は世界中で知られている。
ドイツ人と森——Waldの持つ意味
ドイツ語のWald(森)は単なる地理的概念ではない。ドイツのロマン主義(18〜19世紀)は森を精神的な故郷として描いた。カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの絵画、アイヒェンドルフの詩——森は「ドイツ的なるもの」のシンボルとして文化に根付いた。
この感情は現代でも生きている。ドイツ連邦自然保護庁の2021年調査では、ドイツ人の93%が「森は自分にとって重要」と回答した。週末になると都市部の住民が森に向かう習慣は「Waldspaziergang(森の散歩)」と呼ばれ、メンタルヘルスの文脈でも推奨されている。日本の「森林浴」に通じる概念だが、ドイツでの歴史の方がはるかに長い。
Waldsterben——森が死んだ日
1980年代、ドイツ社会を揺るがしたキーワードがある。Waldsterben(森の死)。酸性雨によって大量の木が枯れ始め、特にシュヴァルツヴァルトの被害が深刻だった。
1984年の調査では、ドイツの森林の約50%が何らかの損傷を受けていると報告された。メディアは「ドイツの森が消える」と大々的に報道し、国民的なパニックが起きた。
結果として何が起きたか。
- 大気汚染規制の強化——大規模排煙脱硫装置の設置義務化
- 触媒コンバーターの義務化——ヨーロッパで最初にガソリン車への触媒装置搭載を義務付けた国の一つ
- 緑の党(Die Grünen)の躍進——1983年に連邦議会に初進出。Waldsterbenが追い風になった
「森が枯れている」という事実が、環境保護を個人の趣味から国家政策に引き上げた。ドイツの環境意識の起点は「北極のシロクマ」ではなく「近所の森のトウヒが茶色くなった」という身体的な危機感だった。
現在のシュヴァルツヴァルト
酸性雨問題は1990年代以降の規制強化で大きく改善したが、2018〜2020年の記録的な猛暑と干ばつで新たな危機が来た。ドイツ森林保護協会(Schutzgemeinschaft Deutscher Wald)によれば、2020年時点でドイツの森林の約80%が何らかの健康被害(樹冠の衰退・害虫被害等)を抱えている。
気候変動による乾燥化が、特にトウヒ(Fichte)を直撃している。トウヒはシュヴァルツヴァルトの主要樹種だが、浅い根を持つため干ばつに弱い。森林管理者は徐々にブナやオーク等の広葉樹への転換を進めている——「Waldumbau(森の改造)」と呼ばれるプロジェクトだ。
在住日本人が楽しむシュヴァルツヴァルト
フランクフルトから車で約2時間、フライブルクが玄関口になる。ハイキングコースが総延長約23,000km整備されており、初心者からベテランまで対応している。
有名なルートは以下の通り。
- Westweg:全長285km、シュヴァルツヴァルトを南北に縦断する長距離トレイル
- Feldberg周辺:標高差が小さく、家族向け。冬はスキーも可能
- Triberg周辺:ドイツ最大の滝(Triberger Wasserfälle、落差163m)と巨大カッコウ時計
宿泊はBauernhof(農家民宿)が独特の体験を提供してくれる。1泊€40〜€80(約6,400〜12,800円)程度で、朝食に自家製のパンとジャムが出てくる。
ドイツ人にとって森は「行く場所」ではなく「帰る場所」だ。シュヴァルツヴァルトを歩くと、その感覚が少し理解できるかもしれない。