フランスの週35時間労働は「上限」ではなく「起点」だった
法律は週35時間と定めているが、フランス人の平均実労働時間は週40時間を超える。制度と現実の乖離から見えるフランス労働法の構造的な問いを読む。
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「フランス人は週35時間しか働かない」という話を聞いたとき、信じてはいけない。フランス統計局(INSEE)が出している平均週労働時間は40.1時間で、EU平均の36.1時間を上回っている。週35時間制は現実への処方箋ではなく、労働法の計算起点だった。
「35時間」は何を定めているのか
2000年に施行されたオブリー法(Loi Aubry)による週35時間制は、正確には「週35時間を超えた分を時間外として扱う」と定めた法律だ。「35時間を超えて働いてはいけない」という上限規制ではない。
この違いは決定的だ。
フランスでは、法定時間外労働(36〜43時間の部分)に対して25%増しの賃金が支払われる。さらに、時間外分を金銭でなく有給休暇に換算したものが**RTT(Réduction du Temps de Travail)**と呼ばれる特別休暇だ。
公務員など週35時間契約で働く労働者は最大年34日ものRTTを受け取れる(通常の有給25日に加えて)。民間でも27日程度のRTTを受け取れるケースがある。「週35時間働いてRTTをたっぷり取る」か、「週40時間働いて割増賃金をもらう」か——選択肢は二つ存在する。
平均40時間の内側
Institut Montaigne(フランスの独立シンクタンク)の分析によると、フランスの平均週労働時間は2022年時点で39.8時間。INSEEのデータでは正規雇用者の平均は40.1時間だ。
管理職・幹部層には「フォルフェ・ジュール(forfait jours)」と呼ばれる制度があり、時間単位ではなく「年間218日」を労働日数の基準として契約する。この制度を使う場合、週何時間働いたかは問われない。35時間制の対象外に置かれるわけだ。大企業のエンジニアや管理職の多くがこの枠組みで動いており、実質的に週45〜50時間働くことも珍しくない。
フランスのワーキング・アワーズを巡る議論でよく引き合いに出されるのが生産性の話だ。労働時間が短いのに生産性は高いという文脈で語られることが多いが、OECDのデータを見ると一時間当たりの労働生産性では確かにフランスは上位に入る。ただしコロナ以降は生産性の伸びが鈍化しており、「週35時間が生産性を高めた」という単純な因果関係は立証されていない。
「35時間」に誰が怒り、誰が守るのか
制度に対する評価は立場によって大きく割れる。
経営者側は一貫して批判的だ。残業コストの増加と事務処理の複雑化が競争力を落とすという主張で、「35時間制があるからフランスに工場を作らない」という議論が繰り返されてきた。2024年には元閣僚が財政赤字削減策として「35時間制の廃止」を提案し、物議を醸した。
労働組合側は守備的に擁護する。フランスの労働組合の組織率は約10%程度(先進国でも低水準)だが、政治的影響力は大きく、街頭抗議を組織する力を持つ。2019〜2020年の年金改革反対デモと同じ構図で、35時間制の廃止は「社会的合意の破壊」として強く抵抗される。
若い世代では評価が分かれる。「もっと働いてキャリアを積みたい」という層と「プライベートの時間を守りたい」という層が並立しており、「35時間は硬直的すぎる」という声も聞こえる。
制度の「裏口」として機能するもの
法制度と実態の乖離は、しばしば「抜け道」の存在によって維持される。フランスの場合、35時間制の事実上の抜け道は制度設計に最初から組み込まれていた。
年間220時間の上限内での時間外労働は企業側が一方的に命じることができる(事前通知のみで労働者の同意不要)。これは実質週39時間相当に相当する。つまり35時間制は、法的に220時間の時間外を認めながら「35時間が基準」と言い続けているわけだ。
批評家的に言えば、これは「35時間というシンボルを維持しながら、実態は39時間化する」という政治的な妥協点だった。
数字の背後にある問い
週35時間を守るドイツのエンジニアも、週40時間働くパリのマーケティングマネージャーも、年間30〜35日のRTTを使って夏に3週間バカンスに行く人も——フランスの労働市場には多様な実態が共存している。
「フランス人は怠ける」という外からのステレオタイプも、「35時間制が経済を壊す」という経営者の嘆きも、どちらも一面的だ。制度と実態の乖離を生き延びる方法を社会全体で見つけ続けているのが、フランスの労働の現実に近い。
主な参照データ: Institut Montaigne「フランスの労働時間に関する調査」(2022)、フランス統計局INSEE「正規雇用者の平均労働時間」、Connexion France「週35時間制の仕組み解説」