パン職人が足りない——フランスが「バゲットの国」を維持できなくなる日
フランスでは毎年約1,000軒のパン屋が廃業し、パン職人の求人充足率は60%を下回る。2022年にバゲットがユネスコ無形文化遺産に登録された同じ年に、「パン屋のない村」が全国で1万を超えた。バゲットの国で何が起きているのか。
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2022年11月、フランスのバゲット製法がユネスコの無形文化遺産に登録された。フランス政府が推薦し、マクロン大統領自ら歓迎コメントを出した。だがその同じ年、フランスのパン職人組合(CNBPF)は「パン屋のない自治体が10,000を超えた」と発表している。フランスの約35,000のコミューンのうち3分の1にパン屋がない。
数字が語る衰退
フランスのパン屋(boulangerie)の数は、1970年代には約55,000軒あった。2024年時点で約33,000軒(CNBPF推計)。50年で4割が消えた。
年間約1,000軒が廃業し、新規開業は700〜800軒。差し引きで毎年200〜300軒ずつ純減している。パリ市内では減少が緩やかだが、地方の小さなコミューンでは「最後のパン屋」が閉じた瞬間に、住民は車で15分以上かけてパンを買いに行くことになる。
なぜ職人が来ないのか
パン職人(boulanger)の労働条件は過酷だ。
労働時間: パン生地の発酵に時間がかかるため、焼き上がりを朝7時に合わせるには深夜2時〜3時に仕事を始める必要がある。労働時間は1日10〜12時間に及ぶことが多い。週6日勤務が標準。
給与: 見習い(apprenti)の初年度はSMIC(法定最低賃金)の27〜67%で、月額€460〜€1,120(約7.4万〜17.9万円)程度。資格取得後のパン職人でもSMIC+数%(月€1,800〜€2,200、約28.8万〜35.2万円)が相場だ。10年以上の経験でも月€2,500(約40万円)を超えることは少ない。
見習い制度の離脱率: パン職人養成課程(CAP Boulanger、2年制)に入学した若者のうち、約30%が課程を修了しない(教育省統計)。深夜勤務・肉体労働・低賃金のトリプルパンチで、別の職種に転じる若者が多い。
スーパーの冷凍パンとの競争
もう一つの構造的問題は、大型スーパー(grande surface)の「パン売り場」だ。
カルフール、ルクレール、オーシャンなどの大型スーパーには、店内にパンコーナー(borne de boulangerie)を設けている店舗が多い。ここで売られるパンの多くは冷凍生地を店内のオーブンで焼いたものだ。バゲット1本€0.50〜€0.80(約80〜128円)。町のパン屋のバゲットが€1.20〜€1.50(約192〜240円)であることを考えると、価格差は歴然だ。
2023年のIFOP調査では、フランス人の約40%が「週に1回以上スーパーでパンを買う」と回答している。味の差を感じるかという質問には約65%が「町のパン屋の方が美味しい」と答えているが、利便性と価格が購買行動を決めている。
「Boulangerie」の名前を守る法律
フランスには1998年制定の「パン屋の名称保護法(Décret n°98-246)」がある。「Boulangerie」を名乗れるのは、自店で生地を仕込み、発酵させ、焼き上げまでの全工程を行う店舗だけだ。冷凍生地を焼くだけの店は「Boulangerie」を名乗れない。
この法律はパン職人の技術と品質を保護する目的で作られたが、法的にはグレーゾーンも多い。「部分的に冷凍した生地を使用しつつ、最終発酵は自店で行う」ケースはBoulangerieを名乗れるのか。判例は分かれている。
地方自治体の対策——「最後のパン屋」を守る
パン屋のないコミューンでは、自治体が介入するケースが増えている。
家賃補助・設備補助: コミューンがパン屋の物件を購入し、低家賃で職人に貸し出す。設備(オーブン・ペトラン等)の購入費を補助する自治体もある。
共同パン屋(four banal)の復活: 中世にはコミューンに共同のパン焼き窯があった。一部の農村では、住民有志が交代でパンを焼く「共同パン窯」を復活させる動きがある。
移動パン屋(boulanger ambulant): 車にパン焼き設備を積んで複数のコミューンを巡回するモデル。週に2〜3回決まった時間に来る移動パン屋は、地方の高齢者にとって生活インフラになっている。
在住者にとってのパン屋
フランスに住むと、パン屋は単なる食品店ではないと気づく。朝のバゲットを買う行為は、近所の人に挨拶し、天気の話をし、「今日のは良く焼けてるね」と一言交わす社交の場でもある。
パリ市内にはまだパン屋の選択肢が豊富にある。区ごとに「この区で一番のバゲット」を決めるコンクール(Grand Prix de la Baguette de Tradition Française)があり、優勝した職人はエリゼ宮(大統領府)にバゲットを1年間納入する権利を得る。2024年の優勝者は11区のパン屋だった。
地方に住む場合は、近所のパン屋が「いつまであるか」を意識した方がいいかもしれない。高齢の職人が「後継者がいないから閉める」と言い出すのは、ある日突然だ。
主な参照: CNBPF(Confédération Nationale de la Boulangerie-Pâtisserie Française)統計2024年、UNESCO無形文化遺産登録「Artisanal know-how and culture of baguette bread」2022年、Décret n°98-246(パン屋名称保護法)、IFOP消費行動調査2023年