バゲットはフランス革命以来ずっと政治だった
1793年の「最高価格法(Maximum général)」からバゲットの価格統制が終わった1987年まで、パンの値段はフランスで繰り返し政治問題になってきた。その構造を読む。
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パリのパン屋でバゲットを1ユーロ前後で買える今、その値段が230年以上にわたる政治的な問いの蓄積の上に成り立っているとは、買い物袋を持って店を出た後には思わない。でも確かにそうなのだ。
小麦粉が暴動を起こした国
1789年のフランス革命の直接の引き金のひとつがパンの値上がりだったことは、歴史的によく知られている。しかしそれより14年前の1775年、「メルケール(小麦戦争)」と呼ばれる一連の暴動がフランス北部・東部・西部で同時発生していた。穀物価格の自由化が小麦とパンの値段を急騰させたことへの民衆の怒りだった。
その教訓は革命政府に深く刻まれた。1793年9月、ジャコバン派が主導する国民公会は「最高価格法(Loi du Maximum général)」を制定した。穀物・小麦粉・肉・油・石鹸・薪・紙など34品目の価格上限を国が一元管理するこの法律は、文字通り「パンの値段を国家が決める」制度だった。
違反すれば死刑になる規定もあった——パンの値段で。
「平等なパン」という宣言
1793年、革命政府はこんな布告を出している。「貧富の差は平等のもと消え去らなければならない。金持ちのための白パンも、貧乏人のための黒パンも、もうない。全てのパン職人は一種類の『平等なパン(Pain d'égalité)』のみを作ること」。
この「平等なパン」構想は実際には数年で頓挫したが、「全ての市民が同じパンを食べられるべきだ」というイデオロギーは、以後200年近くフランスのパン政策に影響を与え続けた。
20世紀に入っても、バゲットの価格は長年にわたって国家管理下に置かれた。価格統制が段階的に緩和され、最終的に完全自由化されたのは1987年のことだ。つまり現代のフランスで「バゲットを好きな値段で売ってもいい」ようになってからまだ40年も経っていない。
インフレとバゲット:現代への回帰
自由化後、バゲットの価格はゆっくりと上昇し続けてきた。2023年時点でパリのパン屋でのバゲット1本の平均価格はおよそ1.1〜1.2ユーロ(約179〜196円)。地方ではさらに安いところも多い。
日本のコンビニで売られる食パン一斤が200〜300円程度であることを考えると、主食となるパンとしては相当安価な部類だ。自由化後も「バゲットは安くなければならない」という社会的圧力が事実上の価格抑制として機能してきたと言える。
2022〜2023年のウクライナ侵攻に伴う小麦価格の急騰は、フランスでも再びバゲットの値上がりを引き起こした。「バゲットが1.5〜2ユーロになった」という報告が相次ぎ、フランスメディアで「バゲット値上げ」が社会問題として報道される事態になった。世界最大の小麦輸出国のひとつが戦争で輸出を制限したことが、パリの朝食テーブルに直撃したのだ。
ユネスコ無形文化遺産の登録と「守ること」の矛盾
2022年、フランスのバゲット製法(伝統的なバゲットの製法と文化)がユネスコの無形文化遺産に登録された。ニッケイ(日経)の報道では「無形文化遺産の仏バゲット、1本130円」という見出しがついていたほどで、価格の話は文化の話と切り離せない。
登録を機に改めて議論されたのは「伝統的なバゲット(バゲット・ド・トラディション)」の定義だ。添加物不使用・24〜48時間発酵・手練り成形という条件を満たすものだけが「伝統的バゲット」を名乗れる。スーパーマーケットで売られる量産品バゲットとは別物として扱われる。
文化遺産としての価値を守るために職人の技術に高い基準を求める一方、「安くパンを食べる権利」との緊張は今も消えていない。パリのブランジェリー(パン屋)は苦境に立たされており、閉店が増えている。大型スーパーの量産バゲットが0.5ユーロ(約82円)以下で売られる中、職人バゲットが1.5ユーロになることへの消費者の反発もある。
物価に刻まれた政治哲学
「誰でも食べられるものの値段は、国家が責任を持つべきだ」——この思想は日本にはほぼ存在しない。食料品の価格は市場に委ねられ、高騰すれば消費者が負担するか、政府が補助金を出す仕組みだ。
フランスのバゲット政策史は、「市場に任せる」という選択肢が常に政治的な選択であることを教えてくれる。1793年に国家がパンの値段を管理しようとした動機は、経済合理性ではなく「平等な空腹を終わらせる」という革命的な怒りだった。
自由化からほぼ40年後、その怒りはまだバゲット1本の値段として小さく燃えている。
主な参照データ: Alpha History「最高価格法(Law of the Maximum)」、Wikipedia「General Maximum」、Connexion France「バゲット価格はフランス政府が統制しているか」、INSEE「フランス消費者物価統計:バゲット(1kg)」