生乳チーズの攻防——フランスが殺菌を拒む理由、それはEUとの静かな戦争
フランスのチーズの約15%は無殺菌の生乳(lait cru)から作られる。EUの衛生規制との間で続く緊張関係は、フランスの食文化が何を守ろうとしているかを映し出す。
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フランスで作られるチーズの種類は1,200以上。シャルル・ド・ゴールは「365種類のチーズがある国を統治するのは不可能だ」と嘆いたとされるが、実際にはその3倍以上ある。そしてその約15%が、殺菌処理をしていない生乳(lait cru)から作られている。
生乳チーズとは
牛乳を72℃以上で15秒間加熱するのがパスチャライゼーション(低温殺菌)だ。大腸菌・サルモネラ・リステリア等の病原菌を殺す効果があり、世界のほとんどの国で乳製品製造の標準工程になっている。
フランスの生乳チーズ(fromage au lait cru)は、この加熱処理を行わない。40℃を超える加熱をせず、原乳の中にいる微生物をそのまま活かして発酵させる。カマンベール・ド・ノルマンディ、ロックフォール、コンテ、ブリー・ド・モーなど、フランスを代表するAOC/AOP認定チーズの多くがこの製法だ。
なぜ生乳にこだわるのか
殺菌すると、病原菌と一緒に「良い菌」も死ぬ。生乳チーズの支持者は、この微生物の多様性こそがテロワール(terroir=土地の個性)を味に反映させると主張する。
同じノルマンディ地方でも、隣接する農場のカマンベールは微妙に味が違う。牧草の種類、土壌の成分、牛の品種、搾乳の季節——これらの変数が原乳の微生物叢に反映され、殺菌してしまえばその情報は消える。ワインのテロワール概念を乳製品に適用したのが、フランスの生乳チーズの思想だ。
EUとの摩擦
EU食品衛生規則(EC規則No.852/2004等)は加盟国共通の衛生基準を定めており、原則として乳製品の加熱殺菌を推奨している。フランスは「伝統的製法の例外」としてAOC/AOP認定チーズの生乳使用を認めさせているが、リステリア菌汚染による食中毒事例が報告されるたびに規制強化の圧力が高まる。
2022〜2023年にかけて、フランス国内でリステリア菌に汚染された生乳チーズの大規模リコールが複数件発生した。EUの食品安全機関(EFSA)は生乳チーズのリスク評価を継続的に行っており、フランスの生産者は常に「次の規制強化」を警戒している。
スーパーで見分ける方法
フランスのスーパーマーケットでチーズを買うとき、パッケージに「au lait cru」と書いてあれば生乳製だ。「au lait pasteurisé」なら殺菌乳製。「au lait thermisé」は63℃程度の中間的な加熱処理(サーミゼーション)を施したもので、殺菌と生乳の中間に位置する。
生乳チーズは妊婦・免疫不全の人には推奨されない。フランスの産婦人科医は妊娠中の生乳チーズ摂取を避けるよう指導するのが一般的だ。
味の違いは本当にあるのか
ブラインドテストで生乳チーズと殺菌乳チーズを区別できる消費者は、実際にはそれほど多くないという調査結果もある。しかしフランスにおいて生乳チーズの議論は「味覚」の問題であると同時に「文化主権」の問題だ。EUの標準規格に合わせて均質化するか、非効率でも多様性を残すか。チーズの話をしているようで、フランスのEUに対する姿勢そのものが透けて見える。