フランスが殺菌しないチーズを守り続ける理由——生乳チーズとEU規制の攻防
フランスのチーズの多くは無殺菌乳(lait cru)で作られています。EU衛生規制との緊張関係、AOC制度による防衛、在仏生活で知っておくべきポイントを紹介します。
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カマンベール・ド・ノルマンディーは、殺菌していない牛乳で作られている。アメリカやオーストラリアでは販売が制限される「リスクのある食品」だが、フランスでは文化遺産だ。
生乳チーズ(fromage au lait cru)とは
生乳チーズは、搾乳後に72℃以上で加熱殺菌(pasteurisation)を行わずに製造されるチーズを指す。原料乳に含まれる微生物がチーズの風味・食感を形成するため、殺菌乳チーズとは味が異なる。
フランスのAOC(原産地統制呼称)チーズの多くが生乳の使用を義務付けている。カマンベール・ド・ノルマンディー、ロックフォール、コンテ、ルブロションなど。AOCを名乗るためには生乳でなければならない。
EUとの緊張関係
EU食品衛生規則(Regulation (EC) No 852/2004)は加盟国に衛生基準の遵守を求めている。生乳チーズはリステリア菌やサルモネラ菌のリスクがあるため、EU内でも規制強化の議論がたびたび持ち上がる。
フランスはそのたびに抵抗してきた。2024年にも欧州委員会の衛生基準見直しに対してフランス農業省が「伝統製法の保護」を主張した。生乳チーズを禁止することは、フランスの食文化とテロワール(風土)の否定に等しいという立場だ。
フランスのチーズの数
ド・ゴール将軍が「246種類のチーズがある国を統治するのは不可能だ」と嘆いたとされる逸話は有名だが、現在のフランスのチーズの種類は1,200以上とも言われる。そのうちAOC/AOP認定を受けているチーズは46種類(2025年時点)。この46種類の多くが生乳使用を義務付けている。
殺菌を義務化すれば、衛生管理は楽になる。だが1,200種類の多様性は維持できなくなる。微生物が作る味の違いが消えるからだ。フランスが生乳チーズを守るのは、懐古趣味ではなく、多様性そのものが産業の競争力だという認識があるからだ。
在仏生活で知っておくべきこと
マルシェやフロマジュリ(チーズ専門店)で「lait cru」の表示を見かけたら、それは生乳チーズだ。風味は殺菌乳チーズより複雑で深い。ただし妊娠中の方やお年寄り、免疫力が低下している方はリステリア感染のリスクがあるため、フランスの保健当局も摂取を控えるよう推奨している。
スーパー(Monoprix、Carrefour等)でもlait cruチーズは普通に売っている。コンテ(Comté)の切り売りで€20〜€40/kg(約3,200〜6,400円/kg)、カマンベール・ド・ノルマンディーAOCで€3〜€5(約480〜800円)程度。
フロマジュリでチーズを買うときは、「Pour ce soir(今夜食べます)」か「Pour dans quelques jours(数日後に食べます)」と伝えると、熟成度合いに応じたものを選んでくれる。これは殺菌乳チーズにはできない、生乳チーズならではの楽しみ方だ。
チーズを殺菌するかしないかは、衛生の問題であると同時に、効率と多様性のどちらを取るかという問いでもある。フランスが「リスクを引き受けてでも味を選ぶ」姿勢は、食に限らずこの国の制度設計のあちこちに顔を出す。