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セーヌ川で泳ぐ——100年越しの水質改善プロジェクトの裏側

2024年パリ五輪でセーヌ川が競技会場になった。1923年に遊泳禁止になってから約100年。パリが川に再び人を入れるまでの水質改善の歴史と技術を追います。

2026-05-21
フランスパリセーヌ川オリンピック環境

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2024年7月、パリオリンピックのトライアスロン競技がセーヌ川で開催された。選手たちがエッフェル塔を背景にセーヌ川を泳ぐ映像は世界に配信された。だが、この「当たり前に見える光景」の裏には、14億ユーロ(約2,240億円)と30年以上の歳月を費やした水質改善プロジェクトがあった。

1923年——セーヌ川遊泳禁止

19世紀まで、パリ市民はセーヌ川で日常的に泳いでいた。印象派の画家たちが描いた川辺の情景——あれは観光の絵ではなく、日常風景だった。

だが都市化と工業化が進むにつれ、セーヌ川の水質は急速に悪化した。下水処理が追いつかず、工場排水が直接流入し、1923年にパリ市はセーヌ川での遊泳を全面禁止した。以来約100年間、パリ市民にとってセーヌ川は「見る川」であって「入る川」ではなくなった。

汚染の元凶——合流式下水道

パリのセーヌ川の水質問題の最大の原因は、下水システムの設計にある。パリの下水道はオスマン時代(19世紀)に整備された「合流式下水道」で、生活排水と雨水が同じ管を通る。

平常時は下水処理場で処理されるが、大雨が降ると処理能力を超えた下水が未処理のままセーヌ川に放流される。これを「オーバーフロー」と呼ぶ。パリでは年間に約20回のオーバーフローが発生していた。

この問題は東京でも同じだ。東京の下水道も約8割が合流式で、大雨時に未処理水が河川や東京湾に流出している。都市の地下インフラは、100年以上前の設計思想に縛られている。

14億ユーロの投資

パリ市とイル・ド・フランス州は、2016年以降にセーヌ川の遊泳可能化に向けた大規模投資を行った。

主な施策:

  • 巨大地下貯水槽の建設: アウステルリッツ駅近くの地下に容量5万m³の雨水貯留槽を建設。大雨時のオーバーフローを防ぐ
  • 下水処理場の増強: パリ上流の処理場の処理能力を向上
  • 船舶の排水規制: セーヌ川を航行する船舶に、汚水の直接放流を禁止し、港での回収を義務化
  • 農地からの流入対策: パリ上流の農地からの窒素・リン酸の流出を削減

水質の指標として使われるのは大腸菌(E. coli)の濃度だ。EU遊泳水域指令の基準値は「良好」で500 CFU/100mL以下。パリ五輪前のモニタリングでは、天候条件によっては基準を超える日もあり、実際にトライアスロンの練習セッションが一部延期された。

2025年以降——市民にセーヌ川を返す計画

パリ市は五輪後もセーヌ川の遊泳可能化を進めている。2025年夏から、パリ市内に3カ所の公共遊泳エリアを順次開放する計画が発表された。

ただし、水質は天候に大きく左右される。数日間の晴天が続けば基準値以内に収まるが、大雨が降るとオーバーフローのリスクは残る。「常時遊泳可能」になるにはまだ時間がかかる。

パリの川で泳ぐ——それは100年かけて都市が自分自身の排泄物と向き合い直す過程だった。下水管の設計思想を変えることは、都市の地下を書き換えることに等しい。派手なオリンピックの映像の裏に、地味で巨大なインフラの格闘がある。

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