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コーニッシュパスティ——イギリスの地域食がEU保護名称を取得した物語

コーンウォール発祥のミートパイ「コーニッシュパスティ」の歴史と文化を解説。錫鉱山の労働者食から国際的な保護名称(PGI)を取得するまでの物語。

2026-05-04
コーニッシュパスティコーンウォール地域食

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イギリスの食べ物は不味い——この偏見は半分正しく、半分間違っている。少なくとも、コーンウォールに行けばその評価は変わるかもしれない。コーニッシュパスティ(Cornish Pasty)。牛肉、ジャガイモ、ルタバガ、タマネギをパイ生地で包んだだけのシンプルな食べ物だが、2011年にEUの保護地理的表示(PGI)を取得した。シャンパンやパルマハムと同じカテゴリの「保護された名前」だ。

錫鉱山の昼食

コーニッシュパスティの起源は、コーンウォールの錫(すず)鉱山に遡る。

18〜19世紀、コーンウォールは世界有数の錫の産地だった。鉱山労働者は地下数百メートルの坑道で長時間働くため、弁当が必要だった。しかし坑道内にはヒ素を含む鉱物が露出しており、手が汚染されていた。

パスティの厚い縁(クリンプと呼ばれる、ねじられた端の部分)は「持ち手」として機能した。労働者はクリンプを握って中身を食べ、汚染された手で触れた縁の部分は捨てた。この「使い捨ての持ち手」がパスティの形状の理由だとする説が広く伝わっている。

もう1つの伝説がある。鉱山労働者は、パスティの一端に肉と野菜の惣菜を詰め、反対側の端にジャムやフルーツのデザートを詰めたという。1つのパスティでメインとデザートの両方を食べられる設計だ(これは現在「甘い端(sweet end)」と呼ばれ、一部のベーカリーで復刻されている)。

PGI(保護地理的表示)の取得

2011年、コーニッシュパスティはEUのPGI(Protected Geographical Indication)に登録された。これにより、「Cornish Pasty」と名乗れるのは、以下の条件を満たすパスティのみとなった。

  • 製造場所: コーンウォール州内で製造されていること
  • 具材: 牛肉(最低12.5%)、ジャガイモ、ルタバガ(スウィード)、タマネギで構成されること
  • 形状: D字型で、側面にクリンプがあること
  • 調理法: 具材は生のまま生地に包み、一体として焼くこと(事前に具材を調理してはならない)

この定義は厳密で、例えば「チキンパスティ」や「ベジタブルパスティ」を「コーニッシュパスティ」と呼ぶことはできない。コーンウォール州外で作られたパスティも「コーニッシュパスティ」と表示できない。

コーニッシュパスティの経済規模

Cornish Pasty Association(CPA)によると、コーニッシュパスティ産業は年間約£300million(約585億円)の売上があり、コーンウォール州内で約13,000人の雇用を生んでいる。

年間生産量は約1億2,000万個。イギリスの人口が約6,800万人なので、国民1人あたり年間約1.8個食べている計算だ。

主要なベーカリーチェーンとしては以下がある。

  • Ginsters: 最大手。スーパーマーケット向けの大量生産
  • Proper Cornish: コーンウォール内で手作り生産
  • Ann's Pasties: 小規模だが地元で高い評価

コーンウォール現地で買う場合、1個£3.50〜6.00(約683〜1,170円)が相場だ。ロンドンでは£5.00〜8.00(約975〜1,560円)程度。

Brexit後のPGI

2020年のBrexitにより、EUのPGI制度はイギリスには直接適用されなくなった。しかし、イギリス政府は独自の「UK GI scheme」を設け、コーニッシュパスティは引き続き保護されている。

ただし、EU市場での保護は別問題だ。EU離脱後も、EU側ではPGIが維持されているため、EU域内で「Cornish Pasty」を名乗るにはPGIの条件を満たす必要がある。逆に、イギリス国内ではEUのPGI規則は適用されないため、理論的にはロンドンのベーカリーが「Cornish Pasty」と名乗ることも可能になった——ただし、UK GI schemeがこれを引き続き制限している。

コーンウォールで食べる

コーンウォールを訪れるなら、パスティは街のベーカリーで買って食べるのが定番だ。

セント・アイヴス: 海辺の観光地で、メインストリートに複数のパスティ店が並ぶ。海を見ながらパスティを食べるのが定番。

パドストウ: リック・スタイン(有名シェフ)の店が集まる港町だが、パスティ店も充実。

トゥルロ: コーンウォールの州都。地元の人が日常的に通うベーカリーがある。

注文時のポイント:「Traditional(トラディショナル)」を頼めば、牛肉・ジャガイモ・ルタバガ・タマネギの正統派が出てくる。「Medium(ミディアム)」サイズは£4〜5、「Large(ラージ)」は£5〜6程度。焼きたてを「take away(テイクアウト)」するのが最も美味しい食べ方だ。

パスティとイギリスの階級

パスティは元々「労働者の食べ物」だった。18〜19世紀、コーンウォールの鉱山労働者や農夫が食べるもので、上流階級の食卓には出てこなかった。

しかし現代では、ロンドンの高級デパート(フォートナム&メイソンなど)でもパスティが販売されている。1個£7〜10と通常の倍以上の価格だが、「地方の伝統食をリスペクトする」というポジションだ。

この変化は、イギリスの食文化全体の潮流と重なる。かつて「下層階級の食べ物」とされていたフィッシュ&チップス、パイ&マッシュ、スコッチエッグなどが、ガストロパブ(高級感のあるパブ)やフードマーケットで「リバイバル」されている。

コーニッシュパスティは、鉱山の坑道から始まった素朴な食べ物だ。それがEUの保護名称を取得し、年間売上585億円の産業になった。食べ物が文化遺産になり、地域のアイデンティティを支える——イギリスの地域食の底力を示す好例だ。

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