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イギリスの電力網はティータイムで揺れる——ケトルと送電の物理学

イギリスではテレビ番組の合間に数百万台のケトルが同時にスイッチを入れ、電力網に巨大な負荷をかける。この現象を通じて、イギリスの電力インフラと茶文化の関係を読み解く。

2026-05-20
紅茶電力ケトルインフラTV Pickup

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イギリスの電力系統運用者National Grid(現在のNESO)には、テレビ番組表を監視する専門スタッフがいた。人気ドラマの終了時刻、サッカーのハーフタイム、女王のスピーチの直後——視聴者がテレビの前を離れてキッチンに向かい、一斉にケトルのスイッチを入れる瞬間を予測するためだ。

この現象はTV Pickupと呼ばれ、数分間で電力需要が最大3GW(ギガワット)跳ね上がる。原発3基分の出力に相当する。

なぜケトルがそこまで影響するのか

イギリスの電気ケトルは2,000〜3,000Wの消費電力を持つ。日本の電気ケトル(800〜1,300W)の約2倍だ。これはイギリスの家庭用電源が230V/13A(日本は100V/15A)で、より大きな電力を一度に引き出せるためだ。

仮に300万世帯が同時にケトルをつけると、300万 x 3kW = 9GWの瞬間需要が発生する。実際には全員が完全に同時ではないため3GW程度に分散するが、それでも電力網にとっては巨大な衝撃だ。

National Gridの対応策

TV Pickupに対処するため、NESCOは以下の手段を使う。

  • 揚水発電所: ウェールズのDinorwig発電所は、TV Pickupに対応するために建設された面がある。需要が上がる瞬間に水を落として発電し、12秒でフル出力に到達できる
  • フランスとの連系線: 需要ピーク時にフランスから電力を輸入する
  • 予測モデル: テレビ視聴率データとケトル使用パターンを組み合わせた需要予測モデルを運用

2011年のロイヤルウェディング(ウィリアム王子とキャサリン妃の結婚式)では、式の直後に2.4GWのTV Pickupが発生したと報告されている。

ストリーミング時代の変化

Netflix・Amazon Primeの普及で「番組が同時に終わる」という状況が減り、TV Pickupの規模は縮小傾向にある。しかし完全には消えていない。ライブ放送——特にサッカーのプレミアリーグ、EastEnders(長寿ドラマ)、国王のクリスマスメッセージ——は依然として同時視聴が多く、ハーフタイムのケトルラッシュは健在だ。

紅茶消費量の変遷

イギリスの紅茶消費量は実は減少傾向だ。UK Tea & Infusions Associationによると、2000年代初頭に1日の消費量が1人あたり約3杯だったのが、2020年代には約2杯に減っている。代わりにコーヒーの消費量が伸びている。

しかしケトルの使用は減っていない。コーヒーもインスタント派が多いイギリスでは、ケトルで湯を沸かしてマグカップにインスタントコーヒーを入れる——という紅茶とほぼ同じ工程が継続している。

日本人が驚くイギリスのケトル文化

  • ホテルの部屋に必ずケトルがある: 冷蔵庫がない部屋でもケトルはある。優先順位がそうなっている
  • オフィスに共用ケトルがある: 日本のウォーターサーバーに相当する設備
  • 引っ越し初日にまずケトルを接続する: 家具より先にケトル

電力網の設計が紅茶文化に合わせて構築されている。インフラは技術の問題に見えて、実際は文化の物理的な表現だ。数百万台のケトルが同時に沸くとき、それはイギリスという国の脈拍が1つに揃う瞬間でもある。

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