Kaigaijin
海外在住日本人のメディア
文化・生活

Marmite——イギリスを真っ二つに割る茶色いペーストの正体

「Love it or hate it(好きか嫌いか)」がキャッチコピーのMarmite。ビール醸造の副産物から生まれたこの濃厚な酵母エキスは、イギリスのアイデンティティであり、文化的リトマス試験紙だ。

2026-05-13
イギリスMarmite食文化酵母エキス朝食国民食

この記事の日本円換算は、1GBP≒195円で計算しています(2026年4月時点)。為替は変動するので、現地通貨(GBP)の金額を基準にしてください。

イギリスの食文化を一品で説明するなら、フィッシュ&チップスよりも正確な候補がある。Marmite(マーマイト)だ。濃い茶色の、粘度の高い、強烈に塩辛い酵母エキス。トーストに薄く塗って食べる。見た目は靴墨に似ている。

「Love it or hate it(好きか嫌いか、どちらかだ)」——Marmite自身のキャッチコピーがそう言っている。中間はない。この二極化はイギリス人の自己認識の一部になっている。「あなたはMarmite派?」は、初対面の雑談として成立する問いだ。

ビールの残り物から

Marmiteの原料はビール醸造の副産物——使用済みの酵母だ。ビール酵母が発酵を終えた後に残る沈殿物を加工して作る。1902年にバートン・アポン・トレント(スタッフォードシャー州)で初めて商品化された。バートン・アポン・トレントはイギリスのビール醸造の中心地であり、原料の供給に困ることはなかった。

製造工程は非公開だが、基本的にはビール酵母の自己消化(autolysis)——酵母が自分自身の酵素で分解するプロセス——によってアミノ酸が生成され、それが濃縮される。このアミノ酸の中にグルタミン酸が含まれており、これが旨味の正体だ。Marmiteは本質的に「旨味の塊」だ。

栄養と歴史的役割

MarmiteはビタミンB群を豊富に含む。特にB1(チアミン)、B2(リボフラビン)、B3(ナイアシン)、葉酸(B9)の含有量が高い。100gあたり葉酸が1,010μg——1日の推奨摂取量の約5倍だ(ただし100gも食べる人はいない。1回の使用量は4〜5g程度)。

この栄養価が歴史的に重要だった。第一次世界大戦と第二次世界大戦で、イギリス軍の配給品にMarmiteが含まれていた。ビタミンB群の欠乏症(脚気)を防ぐためだ。戦時中の配給制度下でもMarmiteは比較的安定して供給され、「国を支えた食品」としてのイメージが定着した。

使い方——薄く、あくまで薄く

Marmiteの最大の失敗パターンは「塗りすぎ」だ。ジャムのように厚く塗った瞬間、塩分と旨味の濃度が許容範囲を超え、口の中が爆発する。

正しい使い方は以下の通り。

  1. トーストを焼く(食パンでもOK)
  2. バターをたっぷり塗る(これが重要。バターの脂肪分がMarmiteの塩味を和らげる)
  3. Marmiteをごく薄く——ナイフの先端に少量取り、バターの上に塗り広げる
  4. 食べる

初心者が犯す典型的なミスは、バターを省略してMarmiteだけを塗ること。これは上級者の食べ方であり、初めての人がやると二度とMarmiteに触れなくなる。

トースト以外の使い方もある。パスタソースに少量混ぜる(バターパスタ+Marmite+パルメザンチーズ)。シチューやグレイビーの隠し味にする。チーズトースト(Welsh Rarebit風)にMarmiteを加える。すべてに共通するのは「少量」がキーワードだということだ。

「Marmite」という形容詞

イギリス英語では「Marmite」が形容詞として使われる。「She's a bit Marmite.(彼女は好き嫌いが分かれるタイプだ)」「Brexit is a Marmite issue.(Brexitは賛否が真っ二つに分かれる問題だ)」。

意見が二極化するもの、中間がないものを表す一般名詞になっている。ブランド名が言語に組み込まれた例としては、Hoover(掃除機)、Sellotape(セロテープ)に並ぶ。

MarmiteとVegemite

オーストラリアには「Vegemite(ベジマイト)」がある。同じく酵母エキスだが、製法と味が異なる。MarmiteとVegemiteのどちらが優れているかという論争は、英豪間の定番の口論ネタだ。

ニュージーランドにもMarmiteがあるが、イギリスのMarmite(Unilever製)とは別の会社(Sanitarium製)が作っている。味も微妙に違う。2012年のクライストチャーチ地震でSanitariumの工場が被災し、ニュージーランドでMarmiteが品薄になったとき、「Marmageddon」と呼ばれる騒動になった。

在住者とMarmite

Marmiteはテスコ、セインズベリーズ、アズダなど全てのスーパーで手に入る。250gの瓶で£2.50〜£3.50(約488〜683円)。一人暮らしなら数ヶ月は持つ。

「好きか嫌いか」は食べてみないと分からない。日本の味噌汁を「発酵した大豆のペーストのスープ」と説明されたら引くが、飲んでみたら旨い。Marmiteも同じだ。見た目と説明で判断せず、バターたっぷりのトーストに薄く塗って、一口食べてみてほしい。好きか嫌いか。答えは数秒で出る。


主な参照: Marmite公式サイト(Unilever)、Marmite Museum バートン・アポン・トレント、British Nutrition Foundation ビタミンB群解説

コメント

読み込み中...