イギリスのNHSは「無料」医療ではない。「先払い」医療だ
NHS予算は2024/25年に2,047億ポンド(約39.7兆円)。「無料」と呼ばれる医療の本当のコスト構造と、待ち時間という隠れた代金を読む。
この記事の日本円換算は、1GBP≒194円で計算しています(2026年4月時点)。為替は変動するので、現地通貨(GBP)の金額を基準にしてください。
イギリスに引っ越してきた日本人が最初に驚くのは「医療費がかからない」ことではなく、「かかろうとしても待たされる」ことだと言う。NHS(国民保健サービス)は確かに診察費ゼロだが、その代わりに支払っているものがある。
2,047億ポンドの「無料」医療
NHSは1948年に設立された世界最古の普遍的国民医療制度のひとつで、英国居住者であれば原則として医療費の窓口負担なしで診察・入院・手術を受けられる。
その財源は圧倒的に税金だ。2024/25年度のNHS予算(英国保健社会ケア省の支出)は約2,047億ポンド(約39.7兆円)で、GDPの約11%に相当する。財源の大半は所得税・国民保険料(NI)から拠出される。処方箋や歯科・眼科の一部は窓口負担があるが(2024年の処方箋1枚は9.90ポンド=約1,920円)、総予算の1%未満に過ぎない。
一人当たりの公的医療費は年間約3,462ポンド(イングランドの場合、約67万円)。これは日本の国民一人当たり公的医療費(約30万円前後)と比べると2倍以上だ。「無料」はあくまで窓口の話であり、税金という形で事前に徴収されている。
「待ち時間」という名の見えない代金
NHSで最も頻繁に批判されるのは待ち時間だ。
2023年9月、治療を待つ患者数(ウェイティングリスト)は過去最多の770万人を記録した。現在は730万人前後(2025年末時点)に減少しているが、依然として膨大な数字だ。
18週以内の治療完了というNHSの目標は2016年以降、一度も達成されていない。救急外来では、4時間以内の診察という目標に対し、2025年12月のデータでは40.4%の患者がそれを超えて待った。
GP(かかりつけ医)の不足も深刻だ。2016年12月に29,320人いた完全資格GP数は2025年12月時点で28,777人に減少している。それでも患者数は増え続けているため、GP予約は数週間待ちが珍しくない。日本で「今日の午後、病院に行く」という選択肢が普通にあることを考えると、この違いは日常生活の質に直接影響する。
NHS内部の構造的な緊張
NHSが抱える問題を「資金不足」だけに帰着させるのは少し単純すぎる。実際にはより複雑な構造的課題がある。
医師・看護師数はこの5年間で増加した——医師が24%、看護師が25%増えている(2025年6月時点、前5年比)。それでも欠員率は6.7%(2025年9月時点)を維持しており、採用しても補充が追いつかない状態が続いている。
問題は数の話だけではない。高齢化・慢性疾患の増加・メンタルヘルス需要の拡大が需要を底上げし続けており、医療費の効率化を単純な人員増では解決できなくなっている。さらにNHSスタッフの給与水準が民間に比べて低いため、資格を持ったスタッフが海外(特にオーストラリアや中東)や民間に流れるという構造的な人材流出も起きている。
民間医療との二重構造
「無料医療」NHSと並行して、英国には民間医療市場も存在する。民間医療保険(プライベート・ヘルスインシュアランス)の市場は拡大しており、待ち時間を回避したい人や特定の専門医へのアクセスを求める人が使っている。
BBC調査(2024年)では、回答者の約20%がNHSの待ち時間を避けるために何らかの自費診療を受けた経験があった。GDPでみるとイギリスの医療費は国際的に見て5位前後(欧州内)だが、公私の比率や医療の質の均一性では課題が残る。
「無料」の意味を問い直す
NHSを体験した外国人が共通して感じるのは「病院に行くことへの心理的ハードルの低さ」だという。日本では「3割負担で1万円かかるかな」と考えて受診を躊躇するが、英国では窓口負担という概念がないため、「痛かったら行く」という行動がとりやすい。
一方で、「緊急でないから数週間後でいい」という判断をシステムが行う点は大きく異なる。民主的に配分された医療リソースをどう割り当てるかという問いは、どの国も最終的には直面する。
NHSはその答えのひとつだ。完璧ではないが、「医療費の心配をしなくて済む社会」という理念は、今もイギリス人のアイデンティティの一部になっている。
主な参照データ: 英国保健社会ケア省「2024/25年度予算」、NHS England「月次運営統計2025年2月」、英国下院図書館「NHS主要統計:イングランド」、Institute for Government「パフォーマンストラッカー2025:病院」