Wetherspoons——イギリスで最も愛されて最も馬鹿にされるパブチェーンの経済学
Wetherspoons(スプーンズ)は全英900店舗超のパブチェーン。ビール£3台の激安価格、カーペットの柄、朝からフルイングリッシュ。なぜこのチェーンがイギリスの階級・政治・経済の縮図になっているのか。
この記事の日本円換算は、1GBP≒195円で計算しています(2026年4月時点)。為替は変動するので、現地通貨(GBP)の金額を基準にしてください。
イギリス人に「Spoons(スプーンズ)」と言えば、誰でも知っている。Wetherspoons(正式名称:J D Wetherspoon plc)。全英に900店舗以上を展開するパブチェーンだ。ビールが安い、料理が安い、朝からフルイングリッシュ・ブレックファストが食べられる。
イギリスの中流階級はWetherspoonsを「あそこはちょっと……」と言い、労働者階級は「何が悪い」と言い、学生は「金がないから行く」と言う。全員が行く。
なぜ安いのか
Wetherspoonsのパイントの平均価格は£3〜£4.50(約585〜877円)程度。ロンドンの独立系パブが£6〜£8(約1,170〜1,560円)であることを考えると、半額近い。
安さの秘密は3つある。
音楽もテレビもない。 Wetherspoonsにはバックグラウンドミュージックがない。スポーツ中継のテレビもない。PRS for Music(音楽著作権団体)やSky Sportsへのライセンス料がゼロ。これだけで1店舗あたり年間数千ポンドのコスト削減になる。
建物のリサイクル。 Wetherspoonsは銀行の支店跡、映画館跡、教会跡、郵便局跡——使われなくなった大型建物を安く取得してパブに改装する。内装に凝らないため改装費も安い。
直接取引。 大手ビール会社と本社一括で交渉するため、仕入れ価格が独立系パブより大幅に安い。ゲストエール(地元醸造所のビール)も積極的に扱うが、これも本社が価格交渉する。
カーペット論争
Wetherspoonsの店内にはカーペットが敷かれていることが多い。このカーペットの柄がインターネット上でミーム化し、「Wetherspoons carpet」で画像検索すると異様な柄のカーペットが大量に出てくる。
なぜカーペットなのか。実用的な理由がある。カーペットはビールのこぼれを吸収し、床が滑りにくくなる。柄が派手なのは汚れを目立たなくするためだ。美学ではなく機能だ。
Instagramには「#spoonscarpet」というハッシュタグがあり、各地のWetherspoonsのカーペット柄を収集するアカウントまで存在する。
Tim Martin とBrexit
Wetherspoonsの創業者ティム・マーティン(Sir Timothy Martin)は、EU離脱(Brexit)の熱烈な支持者だった。2016年の国民投票の前、マーティンは全900店舗にBrexit賛成のビラを置き、ビールマットにEU離脱のメッセージを印刷した。
パブチェーンの経営者が政治的立場を表明すること自体は珍しくないが、900店舗のパブをプロパガンダの媒体として使った規模感は前代未聞だった。
Brexit後、マーティンは「EUのワインやビールの代わりにオーストラリアやアメリカの製品を入れる」と宣言。実際にフランスワインの一部をオーストラリアワインに切り替えた。
階級の交差点
イギリスの社会学者がWetherspoonsを研究対象にするのは、ここが階級の交差点だからだ。
朝8時:年金生活者がフルイングリッシュ(£5.49 / 約1,070円)を食べている。昼12時:ビジネスマンがランチのバーガー(£7.99 / 約1,558円)を食べている。夜8時:学生がパイントを3杯飲んでいる。深夜0時:クラブに行く前の若者がプレドリンク(pre-drinks)をしている。
同じ空間に、同じ時間帯に、異なる階層が混在する。独立系パブは常連が固定化しやすいが、Wetherspoonsは価格の安さゆえに誰でも入れる。ビアガルテンと同じ構造だ。
Wetherspoons App
Wetherspoonsのアプリは、イギリスのパブ文化を静かに変えた。アプリからビールを注文すると、バーカウンターまで行かなくても席まで持ってきてくれる。
イギリスのパブでは「バーカウンターに自分で行って注文し、その場で支払う」のが伝統だ。テーブルサービスは高級レストランのもの。Wetherspoonsのアプリは、この文化的規範を崩した。
COVID-19以降、アプリ注文は加速した。「バーカウンターに並ぶ」という社会的儀式が減り、一人でパブに入るハードルが下がった。
イギリスを知るための場所
日本人がイギリス社会を肌で感じたいなら、Wetherspoonsに行くのが最短ルートだ。ロンドンのZone 1にも地方の小さな町にもある。£4のパイントを注文して、隣の席の会話に耳を傾ける。
サッカーの試合がある日は行かない方がいい(テレビはないが、試合後の客が押し寄せる)。平日の昼間が最も静かで、地元の空気を吸える。
主な参照: J D Wetherspoon plc Annual Report 2024(店舗数・売上データ)、Morning Advertiser パブ業界誌、ONS Eating and Drinking Out Price Index