トランスミグラシ——ジャワ島から1億人を「移住させよう」とした国家実験
インドネシア政府がジャワ島の過密を解消するために実施した大規模移住政策「トランスミグラシ」。数百万人が島を渡り、何が起きたのかを辿ります。
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インドネシアの国土面積は日本の約5倍。しかし人口の6割近く——約1億5,000万人——がジャワ島に集中しています。面積はインドネシア全体のわずか7%。東京都に日本の人口の半分が住んでいるようなものです。
この偏りを「国策で解決しよう」としたのが、トランスミグラシ(Transmigrasi)でした。
オランダ植民地時代に始まった「島送り」
トランスミグラシの原型は、1905年にオランダ植民地政府が始めた「エシカル・ポリシー(倫理政策)」の一環です。ジャワ島の過密による貧困を緩和するため、スマトラ島のランプン州に農民を入植させました。
独立後、スカルノ大統領がこの政策を引き継ぎ、スハルト政権下の1970〜80年代に爆発的に拡大します。世界銀行の資金援助も受けて、1969年から2000年までに約360万世帯——推定800万人以上がジャワ島からカリマンタン、スマトラ、スラウェシ、パプアへ移住しました。
移住者に与えられたもの
政府が用意したパッケージは明確でした。1世帯あたり2ヘクタールの農地、簡易住宅、1〜2年分の食料と農業資材。「タダで土地がもらえる」という触れ込みに、ジャワの貧困層が殺到しました。
しかし現実は厳しかった。割り当てられた土地の多くは未開拓の熱帯雨林。ジャワの水田農業に慣れた農民が、スマトラやカリマンタンの泥炭地で稲作をしようとしても、うまくいかないケースが頻発しました。土壌の酸性度が高すぎて作物が育たない。灌漑設備もない。
先住民との軋轢
最も深刻だったのは、移住先にもともと暮らしていた人々との衝突です。カリマンタンのダヤク族、パプアの先住民族にとって、突然ジャワ人が大量に入植してくるのは「土地の収奪」そのものでした。
1999年、西カリマンタンのサンバスでダヤク族とマドゥラ人(ジャワ島北東の島出身の移住者)の間で大規模な衝突が起き、数百人が犠牲になりました。この事件はトランスミグラシの負の側面を象徴する出来事として記憶されています。
環境への代償
トランスミグラシは、世界最大級の熱帯雨林破壊の原因のひとつにもなりました。入植地を切り拓くために大量の森林が伐採され、とりわけカリマンタンとスマトラの泥炭地が農地に転換されました。
泥炭地は炭素を大量に蓄積しています。これを農地にすると乾燥し、毎年のように泥炭火災が発生。2015年の大規模火災では、インドネシアのCO2排出量が一時的にアメリカを超えたとする研究もあります(Global Fire Emissions Database)。
それでも残った「混血」の地
皮肉なことに、トランスミグラシの「失敗」は、インドネシアのある側面を強くしました。ジャワ人がスマトラやカリマンタンに根づき、現地の文化と混ざり合って新しいコミュニティが生まれた地域もあります。ランプン州(スマトラ南部)はジャワ語を話す住民が多数を占め、「ジャワの飛び地」とも呼ばれます。
現在、トランスミグラシは事実上停止していますが、その遺産はインドネシア全土に刻まれています。ジャカルタで暮らしていると見えにくい、この国の「奥行き」。在住日本人が地方を旅するとき、ジャワ語を話すスマトラの村に出会ったら——それがトランスミグラシの痕跡です。
首都をジャカルタからヌサンタラ(カリマンタン)へ移す計画は、形を変えた「分散」の試みとも言えます。ジャワ島の重力は、この国の最大の課題であり続けています。