インドの野良犬——3,500万頭が築く都市の生態系
インドには推定3,500万頭の野良犬がいる。駆除ではなく共存を選んだ国の制度設計、ABCプログラムの仕組み、狂犬病リスク、在住外国人が知るべき行動ルールを解説します。
この記事の日本円換算は、1INR≒1.8円で計算しています(2026年4月時点)。為替は変動するので、現地通貨(INR)の金額を基準にしてください。
インドには推定3,500万頭の野良犬がいる。世界の狂犬病による死亡者の約36%がインドで発生している。それでもインドは野良犬の殺処分を法律で禁止した。なぜか。
殺処分禁止の背景
2001年、インド最高裁は野良犬の殺処分を違法とする判決を出した。代わりに導入されたのがABCプログラム(Animal Birth Control)——捕獲→不妊手術→ワクチン接種→元の場所に戻す、という手順だ。
この判断にはヒンドゥー教の「アヒンサー(非暴力)」思想が影響しているが、実務的な理由もある。野良犬を一掃すると、齧歯類(ネズミ)の個体数が爆発的に増加し、ペストやレプトスピラ症のリスクが上がる。犬は都市の食物連鎖の中間捕食者として機能しているのだ。
野良犬の「テリトリー制」
インドの野良犬は無秩序に徘徊しているわけではない。各群れが明確なテリトリーを持ち、他の群れの侵入を排除する。犬たちのテリトリーは概ね200〜500メートル四方で、飲食店・ゴミ集積所・寺院の周辺に形成される。
住宅街の野良犬は住民の顔を記憶しており、毎日見かける人間には反応しない。新しい人間(引っ越してきた外国人など)が通ると吠えるのは、テリトリーへの侵入者と認識しているからだ。2〜3週間で「この人間は敵ではない」と学習する。
在住外国人が守るべきルール
走らない。犬の追跡本能を刺激する。犬に遭遇したら立ち止まり、視線を合わせず、ゆっくり離れる。
食べ物を見せない。路上で食事中に野良犬が近づいてきたら、食べ物を隠す。1度でも餌をやると、その場所で待ち続けるようになる。
噛まれたら即病院。狂犬病ワクチン(PEP)は曝露後でも有効だが、時間との勝負だ。最寄りの病院で初回接種を受け、計4〜5回のスケジュールを完了する。費用は政府病院なら無料、私立病院で1,500〜3,000ルピー(2,700〜5,400円)程度。
渡航前に狂犬病の予防接種(3回接種)を日本で受けておくと、曝露後の接種回数が減り、時間的猶予も広がる。
夜の野良犬
野良犬の行動パターンは昼と夜で大きく変わる。昼間は道端で寝ているだけの犬たちが、夜になると活発にテリトリーを巡回する。特に深夜0時〜朝5時の間は群れの攻撃性が上がるとされる。
夜間に徒歩で帰宅する場合、懐中電灯を持つことが有効だ。光を向けると犬は距離を取る。スマートフォンのライトでも代用できるが、専用の懐中電灯の方が光量が強く効果が高い。
インドの野良犬と人間の関係は、5,000年以上前にさかのぼるとされる。ハラッパー遺跡からも犬の骨が出土している。殺処分も完全な管理もせず、3,500万頭の犬と14億人の人間が同じ空間で暮らし続ける。それは混沌に見えるが、ある種の均衡でもある。