トスカーナのパンに塩が入っていない理由:食の地理学がイタリアを分断する
同じ「パン」でも、トスカーナは無塩、南イタリアは硬質小麦。イタリアの食文化は国単位ではなく州単位で分岐している。
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トスカーナでパンを買って噛んだら、味がしない。不良品かと思ったが、周りのイタリア人は平然と食べている。
トスカーナのパン(Pane Toscano)には塩が入っていない。これは偶然ではなく、12世紀から続く意図的な文化だ。
塩が消えた歴史
12世紀、トスカーナの主要都市フィレンツェとピサは対立していた。ピサは港を持っていたため、海塩の流通を支配していた。ピサがフィレンツェへの塩の供給を止めた(あるいは塩税を高騰させた)結果、トスカーナの内陸部では塩なしでパンを焼く文化が定着した——というのが最も広く語られる説だ。
もう一つの説は、教皇領が課した塩税(Gabella del Sale)が高すぎたため、庶民が節約のためにパンの塩を抜いた、というもの。いずれにせよ、経済的・政治的な制約が食文化を永続的に変えた例として興味深い。
2003年にUNESCOの無形文化遺産にはならなかったが、Pane Toscanoは2016年にDOP(原産地名称保護)の認定を受けた。塩が入っていないことが、正式に「品質の証明」になっている。
パンが変わると料理が変わる
トスカーナのパンに塩がないのは、料理全体の設計と連動している。
トスカーナの伝統料理は塩味が強めに作られる。生ハム(プロシュット・トスカーノ)は他の地域のものより塩辛い。ペコリーノ・トスカーノ(羊のチーズ)も塩気が強い。無塩のパンと塩辛い料理を一緒に食べることで、口の中で味のバランスが取れる設計だ。
Ribollita(リボッリータ)やPappa al Pomodoro(パッパ・アル・ポモドーロ)など、古くなったパンをスープに浸して食べるトスカーナの郷土料理は、パンに塩がないからこそ成り立つ。塩入りのパンをスープに入れたら、全体が塩辛くなりすぎる。
北と南でパンが違う
イタリアのパンは、南北で原材料から異なる。
- 北イタリア: 軟質小麦(Grano Tenero)を使用。柔らかく、白い。食パンに近い食感
- 南イタリア: 硬質小麦(Grano Duro / Semola)を使用。ずっしりと重く、黄色がかった色。噛みごたえがある
プーリア州のPane di Altamura(パーネ・ディ・アルタムーラ)は硬質小麦100%で作られ、2003年にDOP認定を受けた。直径30cm以上の巨大なパンで、3〜4日経っても味が落ちない。
サルデーニャ島のPane Carasau(パーネ・カラサウ)は紙のように薄く焼いたクリスピーなパンで、羊飼いが山に持って行く保存食として発達した。
「イタリア料理」は存在しない
パンの違いは、イタリアの食文化の根本的な特徴を示している。「イタリア料理」という統一されたカテゴリは、実はイタリア人の感覚には存在しない。あるのは「トスカーナ料理」「シチリア料理」「エミリア=ロマーニャ料理」……つまり州ごとの郷土料理だ。
パスタの形状だけでも300種類以上ある。同じ料理が州境を越えると名前が変わる。ボロネーゼ(ボローニャ風ミートソース)をローマで注文すると、ボローニャとは違うものが出てくることがある。
この多様性は、イタリアが統一国家になったのが1861年と比較的最近であることと関係がある。それ以前は独立した都市国家・公国・王国だったため、食文化も言語も法律もバラバラに発達した。統一後160年以上経っても、パンの味が州で違うくらい、その違いは根深い。
日本人がイタリアに住むと、「イタリア料理」を知っているつもりが全く知らなかったことに気づく。その発見が、イタリア生活の楽しさの一つだ。