2,500本の鼻——ローマの公共水飲み場が教える「水は誰のものか」
ローマ市内には約2,500本の公共水飲み場「ナゾーネ」がある。古代ローマの水道インフラから続くこの仕組みは、水の「公共財」としての思想を体現している。
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ローマの街を歩いていると、鋳鉄製の円柱から水が流れ続けている小さな柱に出くわす。蛇口はない。水は24時間、止まることなく地面に流れ落ちている。
これがnasone(ナゾーネ)だ。イタリア語で「大きな鼻」を意味する。水が出る管が鼻のように突き出していることに由来する。ローマ市内に約2,500本。東京都の公衆トイレの数(約3,000)に匹敵する密度で、街角に立っている。
水を止めない設計
ナゾーネには蛇口がない。水は常に流れている。一見すると途方もない無駄に見える。
しかし、この設計には理由がある。蛇口を付けると凍結で破損するリスクがある(ローマの冬は氷点下になることもある)。さらに、蛇口は壊されたり盗まれたりする。蛇口なしの設計は、メンテナンスコストを最小化する合理的な選択だ。
水源はローマ市の水道(ACEA管理)で、水質はEUの飲料水基準を満たしている。ペットボトルの水を買う必要は、ローマでは本来ない。
古代ローマの水道遺産
ナゾーネの水は、古代ローマの水道(acquedotto)の延長線上にある。
紀元前312年にアッピウス・クラウディウスが最初の水道「Aqua Appia」を建設して以来、ローマは最盛期に11本の水道を持ち、1日約100万立方メートルの水を供給していた。人口約100万人に対するこの水量は、現代の多くの都市を上回る。
古代ローマの公共噴水(lacus)は約600基。市民は無料で水を利用できた。水は公共財であり、政治的な正統性の象徴でもあった——皇帝が新しい水道を引くことは、市民への贈り物であり、権力の誇示だった。
現代のナゾーネは1874年にローマ市が設置を始めたもので、古代の噴水の直接の後継ではない。しかし「水は公共のもの」という思想は、2,000年以上にわたって継承されている。
飲み方の作法
ナゾーネには正しい飲み方がある。
管の先端から流れ出る水に直接口をつけて飲む——のではない。管の上部に小さな穴が開いている。管の先端を指で塞ぐと、上部の穴から水が噴水のように上向きに吹き出す。これに口をつけて飲む。
この「指で塞いで上から飲む」テクニックを知らない観光客は、管の先端に直接口をつけてしまう。衛生的な理由からも、上部の穴を使う方がよい。
ペットボトルの水は必要か
イタリアはヨーロッパ最大のボトルウォーター消費国だ。一人当たりの年間消費量は約200リットル(Censis、2023年)で、ドイツ(約150リットル)やフランス(約120リットル)を大きく上回る。
ナゾーネの水が安全に飲めるにもかかわらず、イタリア人がペットボトルを買い続ける理由は、各地の水源による味の好み(San Pellegrino、Ferrarelle等)、炭酸水(acqua frizzante)への需要、水道管の老朽化への不安などが複合している。
- 信頼の問題: 水道管の老朽化を心配する声がある(特にローマ南部やナポリ)
- 習慣: レストランで水を頼むと必ずボトルが出てくる。水道水(acqua del rubinetto)を頼むのは可能だが、やや気まずい雰囲気になることも
水飲み場マップ
ローマ市は公式ウェブサイトでナゾーネの位置情報を公開している。Googleマップで「nasone Roma」と検索すると、多数のピンが表示される。
他の都市にも同様の水飲み場がある。ミラノには約700基の「vedovelle」(「小さな未亡人」の意)、トリノには約800基の「toret」(「小さな雄牛」の意)がある。
2011年、水道の民営化に関する国民投票が行われ、反対票95.3%で否決された。「L'acqua è un bene comune」(水は公共財である)——このスローガンは、ナゾーネの設計思想そのものだ。24時間流れ続け、誰でも無料で飲める。この「無駄」に見える設計が、実は最も公平な水の分配方法かもしれない。
ローマの真夏、35度の午後にナゾーネの冷たい水を飲む。指で管を塞ぎ、上向きに噴き出す水に顔を近づけるその瞬間——2,000年前のローマ市民も、おそらく同じ動作をしていた。