チョンセは世界に一つしかない借家形態だ——韓国にだけ存在する理由
家賃を払わず、代わりに数千万円の保証金を預ける。2年後に全額返ってくる。この奇妙なシステムが韓国に生まれ、長く機能した構造的理由を解説する。
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毎月家賃を払わない。代わりに数億ウォン(数千万円)を大家に預ける。2年後、全額返ってくる。
これがチョンセ(전세)だ。世界中の賃貸市場を見渡しても、このシステムはほぼ韓国にしか存在しない。なぜこんな制度が生まれ、なぜ機能したのか。そしてなぜ今、崩壊しつつあるのか。
仕組みを理解する
チョンセは「保証金のみで毎月の家賃がゼロ」という借家方式だ。
たとえばソウルのアパート(韓国語でアパート:マンション相当)の市場価格が5億ウォン(5,500万円)とする。チョンセ保証金は市場価値の50〜80%、つまり2.5〜4億ウォン(2,750〜4,400万円)程度になる。テナントはこの金額を契約時に一括で大家に支払い、2年間住む。退去時に全額返金される。
テナント側のメリットは「家賃ゼロ」だ。デメリットは多額の初期資金が必要なこと。
大家側のメリットは「保証金を自由に運用できる」ことだ。株・不動産・事業投資——預かった2〜4億ウォンを2年間動かして利益を得る。テナントに返却するのは元本だけでいい。デメリットは返却時に現金を用意しなければならないこと。
なぜ韓国に生まれたか
答えは1960〜80年代の韓国の経済状況にある。
この時期、韓国は高度成長の真っ只中だった。銀行の預金金利は年20〜30%に達することもあった。インフレも激しく、物価が1年で数割上がることが普通だった。
そのような環境では、手元にある現金は「すぐに動かさないと価値が下がる」資産だ。大家にとって保証金を受け取ることは、月払い家賃を受け取るより圧倒的に有利だった。保証金を高利回りの金融商品に投資すれば、月家賃の合計をはるかに超えるリターンが得られた。
テナント側も、月払い家賃を払い続けるより、保証金を一括で出して運用利回り分の「家賃節約」を享受する方が合理的だった。チョンセは低金利時代には成立しない制度だ。高インフレ・高金利という特殊な経済環境の中でのみ、両者に合理性がある。
高度成長が終わり、制度が歪んだ
2000年代以降、韓国の金利は下がり続けた。2020年代には政策金利が1〜3%台になった。
大家が保証金を安全な金融商品に預けても、年1〜2%程度の利回りしか得られない。チョンセ保証金の「投資効率」が激減した。
大家はどうしたか。保証金をより高リスクな投資(別の不動産、株、さらには新規チョンセ保証金の転用)に回すようになった。「前のテナントのチョンセ保証金で新しい物件を買い、そこにチョンセテナントを入れてさらに保証金を得る」という連鎖的な資金移動が起きた。
不動産価格が上がり続ける間は、この構造は機能した。しかし2022〜2023年の不動産市場の冷え込みで、資金連鎖が途絶えた。保証金が返せない大家が続出した。
「チョンセ詐欺」という社会問題
2024年の統計では、チョンセ保証金の不払い件数が約2万件に達した。2016〜2018年はほぼゼロだった件数が、わずか6〜7年で急増した。
被害の多くは若年層だ。生涯の貯蓄や親からの援助を保証金として預け、返金されないケースが続出した。「チョンセ詐欺」は韓国の社会問題として大きく報道されている。
政府は被害者保護のために保証保険の義務化・国家補償制度の拡充などを行ったが、根本的なシステムの脆弱性は残る。
世界唯一の借家制度が示すもの
チョンセはある意味で、国家規模のレバレッジ取引だ。
不動産市場全体で、テナントの保証金が大家の投資原資として流通している。ウォン換算で1,058兆ウォン(約116兆円)ものチョンセ保証金が市場に滞留しているという推計もある。日本のGDPの3分の1に相当する規模の資金が、個人間の「保証金」という形で不動産市場に組み込まれている。
2025年第1四半期、ソウルの住宅賃貸契約のうち月払い家賃(ウォルセ)の比率が64.6%と過去最高を記録した。チョンセの比率はかつての60〜70%台から大きく下がっている。
世界唯一の制度は、その制度が生まれた時代の経済条件が消えるとともに、ゆっくりと終わろうとしている。どの制度も永続しない——チョンセはその教科書的な事例だ。