マレーシア人が1日に3言語を切り替える——その認知コストはどこに消えるのか
マレー語・英語・中国語を場面で使い分けるマレーシア人の言語スイッチング。すごい能力ではなく、社会が要求する認知的負荷の話。
マレーシア人の多言語能力は「才能」ではない。社会が構造的に要求する認知的負荷を、日常的に処理し続けた結果だ。
KLのオフィスで働く華人系マレーシア人の1日はこんな感じだ。朝、家族と広東語で話す。通勤中にマレー語のニュースを聞く。オフィスに着いたら英語でメールを打つ。ランチは中国語(北京語)でホーカーのおばちゃんに注文。午後の会議はマレー語混じりの英語。帰宅後は福建語でテレビを見る。
1日に3〜5言語を切り替えている。これを「すごい」と称賛する日本人は多いが、マレーシア人自身は「すごい」とは思っていない。呼吸みたいなものだから。
言語スイッチングの認知コスト
神経言語学の研究では、バイリンガル(二言語話者)が言語を切り替える際に「スイッチングコスト」が発生することがわかっている。言語Aから言語Bに切り替えるとき、脳は言語Aの体系を抑制し、言語Bの体系を活性化させる必要がある。この切り替えには認知的リソースを消費する。
では3言語、4言語を日常的に切り替える人の脳はどうなっているのか。
研究によれば、多言語話者は「実行制御機能(executive control function)」——注意の切り替え、不要な情報の抑制、ワーキングメモリの管理——が単一言語話者より優れている傾向がある。これは「鍛えられた結果」であり、生まれつきの才能ではない。
つまりマレーシア人は、社会が要求する言語切り替えを毎日こなすことで、認知的な「筋トレ」を常時行っている状態にある。
なぜマレーシアは多言語になったのか
マレーシアの多言語状況は自然発生したものではなく、歴史的に作られたものだ。
イギリス植民地時代、錫鉱山にはインドからタミル系労働者が、ゴム農園には中国南部から華人が連れてこられた。マレー人、華人、インド系——それぞれが自分の言語を維持したまま同じ国に住むことになった。
独立後、マレー語(バハサ・マレーシア)が国語になったが、華人やインド系に自分の言語を捨てさせることは政治的に不可能だった。教育制度でも国民学校(マレー語)、華文学校(中国語)、タミル学校(タミル語)が並立している。
結果として、マレーシア人は公的な場面ではマレー語、ビジネスでは英語、私的な場面では民族の言語を使うという三層構造を生きている。
「Manglish」——混合言語の合理性
興味深いのは、マレーシア人が言語を「きれいに」切り替えているわけではない点だ。
実際の会話では、英語・マレー語・中国語の単語が一つの文に混在する。これが「Manglish(マングリッシュ)」と呼ばれるマレーシア英語の特徴だ。
例えば、"Can lah, no problem, nanti I settle"(大丈夫よ、あとで片付けとくから)。英語の"Can"、マレー語の"nanti"(あとで)と"settle"(英語由来だがマレーシア独自の用法)が一文に共存している。
これは言語の崩壊ではない。認知コストの最適化だ。
毎回きれいに言語を切り替えるとスイッチングコストが高い。だから頻繁に使う表現は言語の壁を超えて混ぜてしまう。コードミキシング(code-mixing)と呼ばれるこの現象は、多言語社会では合理的な省エネ戦略として機能している。
日本人がシングリッシュ/マングリッシュに詰まる理由
日本人駐在員がマレーシアやシンガポールに赴任すると、「英語が聞き取れない」という壁にぶつかることがある。相手は英語を話しているはずなのに、理解できない。
これはリスニング力の問題ではなく、「英語しか想定していない」ことの問題だ。
日本人は英語を「一つの体系」として学んでいる。アメリカ英語かイギリス英語か、どちらかの規範に沿った英語を想定している。でもManglishやSinglishは、複数の言語体系が重なった「ハイブリッド言語」であり、英語の知識だけでは処理できない。
マレー語の文末助詞(lah, mah, kan)が混ざったり、中国語の語順の影響を受けた文構造が出てきたりする。これに対応するには、「英語以外の要素」を含むコミュニケーションに慣れる必要がある。
つまり問題は英語力ではなく、多言語環境への適応力だ。
認知コストが「消える」場所
冒頭の問いに戻る。マレーシア人が1日に3言語を切り替える認知コストは、どこに消えるのか。
答えは「消えない」。ただし形が変わる。
認知コストは、実行制御機能の強化という形で「投資」に変換されている。多言語話者は注意の切り替えが速く、マルチタスク耐性が高い傾向がある。また、加齢による認知機能低下が遅いという研究結果もある。
ただし、その「投資」にはトレードオフがある。各言語の深い運用能力(学術的な文章を書く、詩を理解する)は、単一言語話者に劣る場合がある。広く浅く vs 狭く深くの構図。
マレーシア人がこのトレードオフを意識的に選んでいるわけではない。社会が多言語を要求し、それに適応した結果こうなっている。「すごい能力」ではなく、「そうしないと生活できない環境への適応」だ。
すごいのはマレーシア人の能力ではなく、それを日常的に要求する社会の構造のほうだ。