マースラントケリング——世界最大の可動式防潮堤が動く日
ロッテルダム港を守るマースラントケリングは全長約360m、エッフェル塔の4倍の重量。完成以来、暴風雨で閉鎖されたのはわずか2回。この巨大構造物の設計思想を読む。
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1997年に完成したマースラントケリング(Maeslantkering)は、暴風雨時に自動で閉鎖される世界最大級の可動式防潮堤だ。完成から約30年。実際に暴風雨で閉鎖が作動したのは、2007年と2023年のわずか2回だけ。
数十年に2回しか動かない構造物に、オランダはEUR4.5億(約720億円)を投じた。
デルタ計画の最終ピース
マースラントケリングは「デルタ計画(Deltawerken)」の13番目にして最後の構造物だ。
デルタ計画の起点は1953年。北海の大嵐がオランダ南西部を襲い、堤防が決壊。1,836人が死亡し、7万人以上が避難を余儀なくされた。この災害を受けて、オランダ政府は「二度と同じことを起こさない」と宣言し、半世紀にわたる治水プロジェクトを開始した。
マースラントケリングはその最後の1基。ロッテルダム港への航路であるNieuwe Waterweg(ニューウェ・ウォーターウェグ)を守る位置に建設された。
設計の特異性
マースラントケリングのアーム1本の長さは約240m。2本のアームが両岸から水路に向かって回転し、中央で閉じる。重量は1本あたり約6,800トン。エッフェル塔(約7,300トン)に匹敵する鉄骨構造物が、水圧に耐えながら回転する。
通常は港の両脇のドックに格納されており、航路を塞がない。ロッテルダム港はヨーロッパ最大の港湾であり、航行を妨げることは経済的に許されない。
閉鎖の判断はコンピュータが自動で行う。水位がNAP(アムステルダム水準面)+3.0mに達すると予測された場合に作動する。人間の判断を介さない設計だ。
「使われないこと」が成功の証
30年で2回しか動いていないという事実を「無駄」と見るか「成功」と見るかで、治水に対する考え方がわかる。
オランダの治水哲学は「1万年に1回の洪水にも耐える」基準で設計されている。日本の河川堤防が「100年に1回」や「200年に1回」を基準にしていることと比較すると、設計思想のスケールが桁違いだ。
国土の約26%が海面下にあるオランダにとって、治水は「インフラ整備」ではなく「国家の存続条件」に近い。
海面上昇という次の問い
気候変動による海面上昇は、マースラントケリングの設計前提を揺るがしている。IPCCの予測では、2100年までに海面が最大1m上昇する可能性がある。そうなると、マースラントケリングの閉鎖頻度は現在の数十年に1回から、年に数回へと増える。
頻繁に閉じるとロッテルダム港の物流に支障が出る。港を守るための構造物が、港の機能を制限する——このパラドックスに対して、オランダ政府は2050年までに次世代の防潮戦略を策定する計画を進めている。
治水とは「水を止めること」ではなく「水と共存する条件を設計すること」だという思想が、オランダのインフラの根底にある。在住者として天気予報を見るとき、風速と潮位の数字がこの国ではまったく別の意味を持っていることに気づく。