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ロッテルダムの建築がアムステルダムと全く違う理由——爆撃後の実験都市

ロッテルダムは1940年のドイツ軍爆撃で市街地の大半を失った。焼け野原から生まれた実験的建築群と、都市再建の思想を読み解く。

2026-05-03
ロッテルダム建築都市計画キューブハウス戦後復興

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アムステルダムとロッテルダムは、電車で40分の距離にある。だが街並みはまるで別の国だ。アムステルダムが17世紀の運河沿いの家屋を保存し続けているのに対し、ロッテルダムにはキューブ型の住居、逆さまに見えるオフィスビル、橋のような形をした市場が並ぶ。

この違いは趣味の問題ではない。1940年5月14日の14分間で決まった。

14分間の爆撃

1940年5月14日、ドイツ軍はロッテルダムの旧市街に約97トンの爆弾を投下した。わずか14分間の爆撃で市中心部の約2.6km²が壊滅し、約800人が死亡、85,000人以上が住居を失った。中世から残る歴史的建造物、教会、商店街——ロッテルダムの「記憶」は物理的に消えた。

アムステルダムは占領されたが、大規模な空爆は免れた。この差が、2つの都市のその後を分けている。

「元に戻さない」という選択

戦後、多くのヨーロッパの都市は「戦前の姿に復元する」道を選んだ。ワルシャワは旧市街を写真と記憶から精密に復元し、ユネスコ世界遺産になっている。

ロッテルダムは逆だった。「失われた過去を再現するのではなく、未来の都市を作る」——この方針のもと、まっさらな更地に近代建築を並べる実験が始まった。ノスタルジーよりも前進を選んだ背景には、港湾都市としての実利的な気質がある。荷物を運ぶ港に、装飾的な石造りの建物は必要ない。

建築の実験場

キューブハウス(Kubuswoningen, 1984年): ピエト・ブロムが設計した38戸の住宅。立方体を45度傾けて柱の上に載せた構造で、完成当初は「住めるわけがない」と批判された。実際に住民が暮らしているが、壁が斜めのため家具の配置には工夫がいる。1戸がミュージアムとして公開されており、入場料3EUR(480円)で内部を見学できる。

マルクトハル(Markthal, 2014年): MVRDV設計の巨大なアーチ型建築。内部は食品市場で、アーチの内壁にはアルノ・クーネンの巨大なフレスコ画が描かれている。住居228戸を兼ねた構造で、「市場の上に住む」というコンセプトだ。

エラスムス橋(Erasmusbrug, 1996年): ベン・ファン・ベルケル設計の斜張橋。白い非対称の支柱から「白鳥」の愛称がある。全長802mで、ロッテルダムのスカイラインを定義する存在になった。

デ・ロッテルダム(De Rotterdam, 2013年): レム・コールハースのOMAが設計した3棟一体の複合ビル。オフィス・住居・ホテル・商業施設を1つの建物に詰め込んだ「垂直都市」だ。高さ150m、延床面積160,000㎡はオランダ最大級の建築物だ。

アムステルダムとの関係

アムステルダム市民はロッテルダムを「コンクリートの街」と呼び、ロッテルダム市民はアムステルダムを「観光客の博物館」と呼ぶ。この対立は半分冗談だが、半分は本気だ。

建築に限って言えば、アムステルダムは「保存の都市」で、新しい建物を建てるにも歴史的景観との調和が求められる。ロッテルダムは「実験の都市」で、突飛なデザインが許容される——というより、期待される。建築家にとってロッテルダムは「やりたいことを試せる場所」だ。

爆撃で失ったものは取り戻せない。だがロッテルダムは、喪失を「何もないからこそ何でもできる」に読み替えた。その読み替えが80年続いた結果が、今のスカイラインだ。

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