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アドボのレシピが国民論争になる国——フィリピンの食と国民性

フィリピンの国民的料理アドボ。政府が「公式レシピ」を制定しようとして全国的な論争になった事件を起点に、フィリピンの食文化と地域アイデンティティの関係を読み解きます。

2026-05-21
フィリピンアドボ食文化アイデンティティ料理

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2021年、フィリピン貿易産業省(DTI)がアドボの「公式レシピ」を制定しようと動いた。目的は輸出や観光PRのための品質基準化だった。結果、全国から猛烈な反発が起きた。「うちのアドボが本物だ」「政府がレシピを決めるな」——料理のレシピが政治問題になる。これはフィリピンという国の構造を映す鏡だ。

アドボとは何か

アドボ(Adobo)はフィリピンの家庭料理の代名詞だ。基本的には肉(鶏肉または豚肉、あるいは両方)を酢と醤油で煮込んだ料理で、ニンニク・黒胡椒・ローリエが入る。

語源はスペイン語の「adobar(漬ける・味付けする)」だが、スペイン到来以前からフィリピンには酢で食材を保存する調理法があった。スペイン人がその調理法を見て「adobo」と名付けた——つまり、料理自体はフィリピン固有のもので、名前だけがスペイン由来だ。

「正しいアドボ」は存在しない

DTIが公式レシピの制定を試みて衝突したのは、フィリピンの7,641の島々にそれぞれのアドボが存在するという現実だ。

  • ルソン島北部(イロコス): 酢が多く、醤油を使わない。色は薄い
  • マニラ首都圏: 醤油と酢のバランス型。黒っぽい仕上がり
  • ビサヤ地方: ココナッツミルクを加える「アドボ・サ・ガタ」
  • サンボアンガ(ミンダナオ): ターメリックを加えた黄色いアドボ
  • ビコール地方: 唐辛子を効かせた辛口アドボ

家庭ごとの差はさらに大きい。祖母から母へ、母から娘へ——レシピは口伝で受け継がれ、各家庭で微調整される。「うちのアドボ」は家族のアイデンティティの一部だ。

なぜレシピが政治問題になるのか

フィリピンは7,641の島、170以上の言語を持つ多民族・多言語国家だ。タガログ語を「フィリピノ語」として国語に定めたこと自体が、ビサヤ語圏やイロカノ語圏からは「マニラ中心主義」だと批判されてきた。

アドボの公式レシピ問題は、この構造と重なる。「マニラのレシピを標準にするのか」「ビサヤのアドボは亜流なのか」——料理の標準化は、地域間の力関係の再定義を意味する。日本で「正しい味噌汁の味噌は赤か白か」を政府が決めようとしたら起きる反発に似ている。ただし、フィリピンの場合は地域間の文化的摩擦がより深い。

結局、DTIは撤回した

DTIは最終的に「公式レシピ」の制定を事実上撤回し、「アドボの多様性こそがフィリピンの文化資産である」という声明を出した。アドボは標準化できない——なぜなら、アドボの多様性はフィリピンの多様性そのものだから。

在住者にとってのアドボ

フィリピンに住むと、あらゆる場所でアドボに出会う。社員食堂、路上の食堂(carinderia)、知人の家のホームパーティー。1食PHP50〜80(約135〜216円)で食べられる日常食だ。

食べ比べてみると、地域差だけでなく家庭差も面白い。フィリピン人に「あなたのアドボのレシピは?」と聞くと、高い確率で熱く語ってくれる。料理の話がそのまま家族の話、地元の話になる。アドボは「フィリピンを理解するための入口」としてかなり優秀な素材だ。

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