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フィリピン人はなぜカラオケで殺されるのか——ビデオケが生んだ世界で最も危険な娯楽

フィリピンでは「マイ・ウェイ」を歌ったことが原因で殺人事件が起きている。カラオケ(ビデオケ)が国民的娯楽を超え、社会現象になった国の音楽と暴力の関係。

2026-05-11
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フィリピンには「マイ・ウェイ殺人(My Way Killings)」という言葉がある。

フランク・シナトラの名曲「My Way」をカラオケで歌った人が、歌い方を批判されて喧嘩になり、殺害される——という事件が複数回報じられている。ニューヨーク・タイムズが2010年に記事にし、BBCやガーディアンも取り上げた。フィリピンの一部のカラオケバーでは「My Way」をメニューから外した店があるほどだ。

なぜフィリピン人はカラオケにそこまで「本気」なのか。

ビデオケという文化装置

フィリピンではカラオケを「videoke(ビデオケ)」と呼ぶ。1990年代にフィリピンで独自に発展した形態で、テレビモニターに歌詞と映像が流れ、マイクで歌う——日本のカラオケと基本は同じだ。

しかし、使われ方が違う。

日本のカラオケは防音室の中で、仲間内で楽しむ閉じた娯楽だ。フィリピンのビデオケは「開いた」娯楽で、バランガイ(最小行政単位)の広場、サリサリストア(小さな雑貨店)の前、家の庭先——あらゆる場所にビデオケマシンが置かれ、近所中に歌声が響き渡る。

週末の夜、住宅街を歩くと、あちこちから歌声が聞こえてくる。隣の家がビデオケを始めると、音量は「近所迷惑」のレベルを軽く超える。しかしフィリピンでは、これが「迷惑」として問題化しにくい。なぜなら、翌週は自分がやる番だからだ。

歌唱力が「社会的通貨」になる国

フィリピン人の歌唱力は世界的に知られている。国際的な歌唱コンテストでフィリピン人が上位を独占することは珍しくない。YouTubeでバイラルになったフィリピン人の路上シンガーは数え切れない。

この歌唱力は「才能」だけでは説明できない。フィリピンでは歌が上手いことが社会的な評価に直結する。家族の集まり、フィエスタ(祭り)、教会のミサ——あらゆる場面で歌う機会があり、歌が上手い人は尊敬される。

逆に、歌が下手なのにビデオケで長時間マイクを独占する人は、周囲の不満を買う。「My Way殺人」の背景には、酒が入った状態で歌唱の質をめぐる口論がエスカレートする、というパターンがある。歌が「自己表現」ではなく「パフォーマンス」として聴衆に評価される文化だからこそ、批判が人格攻撃として受け取られやすい。

ビデオケマシンの経済学

フィリピンのビデオケマシンは、独立した小さなビジネスでもある。

バランガイの通りに面した場所にビデオケマシンを設置し、1曲PHP 5〜10(約14〜27円)で貸し出す。マシンの購入費用はPHP 15,000〜30,000(約40,500〜81,000円)程度。夜に利用者が集まれば、数ヶ月で元が取れる。

サリサリストア(零細雑貨店)がビデオケを併設するケースも多い。歌いに来た客がビールやスナックを買うので、物販の売上も伸びる。ビデオケは「娯楽」であると同時に「集客装置」だ。

コイン式ビデオケ

フィリピン特有の形態として「コイン式ビデオケ」がある。路上やサリサリストアの前に設置された小型マシンにコインを入れると、1〜2曲歌える。PHP 5硬貨を1枚入れて歌い始める。

防音なし。オープンエア。通行人が立ち止まって聴く。上手い人が歌い出すと拍手が起きる。下手な人にも、まあ、温かい目が向けられる(だいたいは)。

このコイン式ビデオケは、フィリピンの「音楽の民主化」を象徴している。カラオケボックスに入る金がなくても、PHP 5あれば歌える。歌うことへのハードルが世界で最も低い国、それがフィリピンだ。

騒音問題と法律

ビデオケの騒音は社会問題にもなっている。2022年に制定されたRepublic Act No. 11917(Anti-Disturbance/Noise Pollution Law)は、住宅地での過度な騒音を規制する法律だ。夜10時以降の大音量のビデオケは理論上は違法になる。

しかし、法律の施行は緩い。バランガイ・キャプテン(地区長)が仲裁に入ることが多いが、「あの家族は来月のフィエスタでもビデオケやるんだから、今回は許してやれ」という調停がなされることも。法律よりコミュニティの人間関係が優先される。

日本人とビデオケ

フィリピンに住む日本人がビデオケの誘いを受ける場面は必ず来る。同僚の誕生日パーティー、ご近所の集まり、取引先との交流——「歌って」と言われたら、断ると場の空気が悪くなる。

日本の曲を歌うと盛り上がることが多い。フィリピン人は日本のポップスを知っている人が意外に多く、「First Love」(宇多田ヒカル)や「Sukiyaki(上を向いて歩こう)」は定番だ。

歌唱力は二の次でいい。大事なのは「歌うこと自体への参加」だ。フィリピンのビデオケは、日本のカラオケのように「上手に歌う場」ではなく、「一緒に楽しむ場」——少なくとも建前上は。マイクを握って最後まで歌い切れば、それだけでコミュニティの一員として認められる。

ただし、「My Way」は避けた方が無難かもしれない。

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