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ポルトガル人がエスプレッソを「ビッカ」と呼ぶ理由——コーヒー1杯に詰まった植民地の記憶

ポルトガルのコーヒー文化は、ブラジルとの植民地関係から生まれた。1杯EUR 0.70のエスプレッソが国民的飲料になった歴史と、注文時に知っておくべきメニュー体系。

2026-05-11
コーヒー食文化カフェビッカ歴史

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ポルトガルのカフェでエスプレッソを頼むとき、「Um café, por favor」と言えば通じる。しかしリスボンでは「Uma bica」、ポルトでは「Um cimbalino」と呼ぶ。同じ国の同じ飲み物に、都市ごとに違う名前がついている。

この名前の違いの裏には、ポルトガルとコーヒーの長い関係がある。

ブラジルから来たコーヒー

ポルトガルがコーヒー大国になったのは、ブラジルのおかげだ。18世紀、ポルトガルの植民地だったブラジルでコーヒー栽培が爆発的に拡大した。当時のブラジルは世界最大のコーヒー生産国であり、その豆は宗主国ポルトガルに優先的に流れた。

ポルトガル人にとってコーヒーは「自国の植民地から来る安い飲み物」だった。紅茶文化のイギリスや、カフェ文化の先駆けだったフランスとは、コーヒーとの距離感が最初から違う。コーヒーは高級品ではなく、庶民の日常飲料として定着した。

その名残が、現在の価格に出ている。カフェのカウンターで飲むエスプレッソ1杯がEUR 0.70〜0.80(約112〜128円)。スターバックスの3分の1以下。ヨーロッパ主要国の中で最も安い部類に入る。

「ビッカ」の語源

リスボンでエスプレッソを「bica(ビッカ)」と呼ぶ由来には諸説ある。最も有名なのは、リスボンの老舗カフェ「A Brasileira」に掲げられていた看板「Beba Isto Com Açúcar(砂糖と一緒に飲め)」の頭文字を取ったという説。ただし、これは後付けの俗説とも言われている。

ポルトの「cimbalino(シンバリーノ)」は、かつてポルトのカフェで使われていたイタリア製エスプレッソマシンのブランド名「La Cimbali」に由来する。機械の名前がそのまま飲み物の名前になった。日本で「ホッチキス」が商品名から一般名詞になったのと同じ現象だ。

注文のバリエーション

ポルトガルのカフェには、エスプレッソの派生メニューが細かく分かれている。

名称中身
Café / Bica / Cimbalino標準エスプレッソ
Café cheioやや多めに抽出したエスプレッソ
Café curto少量で濃いエスプレッソ(リストレット相当)
Café duploダブルエスプレッソ
Meia de leiteエスプレッソ+ミルク半々(カフェラテ相当)
Galão大きなグラスにミルク多め+エスプレッソ(カフェオレに近い)
Abatanadoお湯で薄めたエスプレッソ(アメリカーノ相当)
Garoto小さなカップにミルク少量+エスプレッソ
Café com cheirinhoエスプレッソにブランデーやアグアルデンテを垂らしたもの

最後の「cheirinho(シェイリーニョ)」は「ちょっとした香り」という意味。午後のカフェでブランデー入りコーヒーを飲む老人を見かけたら、それがcheirinhoだ。

カフェは社交の装置

ポルトガルのカフェは、飲食店であると同時に社交インフラでもある。

朝のカフェでは、出勤前のビジネスマンがカウンターに立ってエスプレッソを一気に飲み、EUR 0.70を置いて去っていく。滞在時間は3分。回転率は日本の立ち食いそばに近い。

一方、午後のカフェは別の時間が流れる。テーブルに座り、パステル・デ・ナタ(エッグタルト)をつまみながら新聞を読む老人。隣のテーブルでは主婦が3人、1時間以上おしゃべりを続けている。エスプレッソ1杯で2時間粘っても、店員に嫌な顔をされることはない。

この「カウンターの速い時間」と「テーブルの遅い時間」の共存が、ポルトガルのカフェの特徴だ。

なぜスターバックスが苦戦するのか

ポルトガルにもスターバックスはある。しかし店舗数はリスボンとポルトの主要駅・空港・ショッピングセンターに限られている。ポルトガル全土で50店舗程度。人口1,000万人の国にしては少ない。

理由はシンプルで、地元のカフェの方が安くて速くて美味い。EUR 0.70のエスプレッソに慣れた人間が、EUR 4のラテに手を出す理由がない。

加えて、ポルトガルのカフェは「通い先」だ。自宅から最も近いカフェに毎日通い、店主と顔見知りになり、注文を言わなくても「いつもの」が出てくる。この関係性はスターバックスには代替できない。

日本人がコーヒーで失敗するパターン

ポルトガルに来た日本人がよくやる失敗が、「café com leite」と「meia de leite」の混同だ。どちらもコーヒー+ミルクだが、割合が違う。「café com leite」はエスプレッソにミルクを少し足したもの、「meia de leite」は半々。日本のカフェラテに最も近いのは「meia de leite」か「galão」だ。

もう一つ、テイクアウト文化がほぼないことにも注意が必要だ。紙カップを持って歩く習慣がないポルトガルでは、コーヒーは店の中で飲むもの。「To go」と言えば対応してくれる店もあるが、怪訝な顔をされることは覚悟した方がいい。

EUR 0.70のエスプレッソは、ポルトガルという国の価値観を凝縮している。安くて、速くて、毎日飲むもの。贅沢品ではなく、生活インフラ。コーヒーがそうあるために、かつての植民地から大量の豆を引っ張ってきた歴史がある。1杯のビッカには、大航海時代の残響がまだ響いている。

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