リスボン大地震が生んだ世界初の耐震都市計画|1755年の瓦礫から立ち上がった街
1755年11月1日、リスボン大地震がヨーロッパ最大の都市の一つを壊滅させた。復興を主導したポンバル侯爵の都市計画は、近代都市設計の原型とされている。
この記事の日本円換算は、1EUR≒160円で計算しています(2026年4月時点)。為替は変動するので、現地通貨(EUR)の金額を基準にしてください。
1755年11月1日の朝、マグニチュード推定8.5〜9.0の地震がリスボンを襲った。万聖節(All Saints' Day)で教会にいた市民の上に天井が崩落し、その後の津波が港を破壊し、倒壊した建物の暖炉から出た火災が6日間燃え続けた。
死者は3万〜5万人。当時のリスボンの人口約27万人の1割以上が一日で失われた。
ポンバル侯爵の決断
災害直後、国王ジョゼ1世の宰相セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)が復興を指揮した。「死者を葬り、生者の面倒を見よ」。この一言でリスボンの復興が始まった。
ポンバル侯爵がまず行ったのは、瓦礫の調査だ。軍の技師に命じて、どの建物がどう倒壊したかを記録させた。これが世界初の組織的な地震被害調査とされている。
グリッド都市の誕生
復興計画はバイシャ地区(Baixa Pombalina)に最も明確に表れている。それまでの迷路のような中世の街並みを完全に撤去し、碁盤の目状の整然とした街区を設計した。
道路は広く直線的に引かれ、建物の高さは統一された。これは美観のためだけでなく、地震時の避難路の確保と延焼防止を目的としていた。リスボンのバイシャ地区を歩くと、アルファマの有機的な路地とのコントラストが一目でわかる。
「ガイオラ」構造
ポンバル侯爵の技師たちが開発した建築構造は「gaiola pombalina(ポンバルの鳥かご)」と呼ばれる。木材で鳥かご状のフレームを組み、その間に石やレンガを充填する構造だ。
木材は地震の揺れを吸収し、石材が崩落しても木のフレームが建物の倒壊を防ぐ。原理的には現代の鉄筋コンクリートに近い発想で、18世紀としては画期的だった。
伝説では、ポンバル侯爵が兵士を建物の模型の上で行進させ、振動に対する強度をテストしたとされている。実証実験に基づく耐震設計の始まりだ。
啓蒙思想への影響
リスボン大地震は建築だけでなく、ヨーロッパの思想にも衝撃を与えた。ヴォルテールは『カンディード』でライプニッツの楽観主義を批判し、カントは地震のメカニズムに関する論文を3本発表した。
「神は善なる存在であるのに、なぜこのような災害を許すのか」。この問いが啓蒙思想の転換点の一つになった。
今のリスボンへの影響
バイシャ・ポンバリーナは現在もリスボンの商業中心地として機能している。コメルシオ広場からロシオ広場まで続く通りは、ポンバル侯爵の設計そのままだ。
しかし、268年前の建物が現代の耐震基準を満たしているかは別の問題だ。ポルトガルは地震リスクが高い地域にあり、リスボン周辺ではM6以上の地震がいつ起きてもおかしくない。ガイオラ構造の建物の耐震補強は進んでいるが、資金不足で未着手の物件も多い。
1755年の教訓で作られた街が、次の地震にどこまで耐えられるか。その答えは、まだ出ていない。