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アズレージョが剥がれ落ちている——ポルトガルのタイル危機と職人不足

ポルトガルの象徴であるアズレージョ(装飾タイル)が、劣化・盗難・職人不足で急速に失われている。文化遺産を維持するための課題と、修復プロジェクトの現在。

2026-05-14
アズレージョタイル職人文化遺産修復

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ポルトのサン・ベント駅の壁面を覆う2万枚のアズレージョ(azulejo)は、ポルトガルの観光ガイドの表紙を飾る。青と白の絵付けタイルが物語る歴史——ポルトガルの旅行者はこの美しさに感嘆する。

しかし駅の外に出て街を歩くと、違う景色が見える。建物の壁面からタイルが剥がれ、下地のコンクリートが露出している。空いた穴の周囲のタイルも浮き上がっている。これがポルトガル各地で起きている「アズレージョ危機」だ。

500年の蓄積

アズレージョの歴史は15世紀のムーア人の影響にさかのぼる。「アズレージョ」という言葉自体がアラビア語の「az-zulayj」(小さな磨かれた石)に由来する。

16世紀にポルトガルの陶工が独自の技法を発展させ、18世紀にバロック様式の壮大な壁面タイル画が教会や宮殿を覆い尽くした。19世紀〜20世紀初頭には工場生産のタイルが普及し、一般の住宅やカフェの外壁にもアズレージョが貼られるようになった。

つまり、ポルトガルの建物のタイルは「装飾品」であると同時に「外壁材」でもある。断熱性はないが、雨を弾き、夏の直射日光を反射する実用的な機能がある。リスボンやポルトの建物がタイルで覆われているのは、美意識だけでなく気候への適応でもあった。

剥がれ落ちる理由

アズレージョが劣化するメカニズムは主に3つ。

水の浸入: タイルの目地(グラウト)が劣化すると、雨水が下地に浸入する。下地のモルタルが膨張・収縮を繰り返し、タイルが浮いて落ちる。1枚落ちると隣のタイルも連鎖的に浮き始める。

塩害: リスボンやポルトは海に近く、塩分を含んだ湿気がタイルの裏側に結晶化する。この結晶の圧力がタイルを内側から押し出す。

放置: 建物の所有者が修復費用を捻出できない、または所有者不明の建物が増えている。特に内陸部の過疎地域では、タイルが剥がれた建物が放置されたまま朽ちていく。

盗難という問題

もう一つ深刻なのがタイル窃盗だ。18〜19世紀のアンティークタイルは1枚EUR 50〜500(約8,000〜80,000円)で取引される。eBayやInstagramで「Portuguese antique azulejo」と検索すると、出所の怪しいタイルが大量に売りに出されている。

2017年、ポルトガル政府はアズレージョの輸出規制を強化し、歴史的価値のあるタイルの国外持ち出しを制限した。しかし、夜中に建物から剥がして持ち去る窃盗は後を絶たない。空き家や廃墟の壁面が特に狙われる。

ポルトガル国立タイル美術館(Museu Nacional do Azulejo)はタイルの盗難データベースを運用しており、盗まれたタイルの写真をオンラインで公開して市民に通報を呼びかけている。

修復職人が足りない

最も根本的な問題は、アズレージョの修復技術を持つ職人の不足だ。

伝統的なアズレージョの修復には、陶芸(タイルの成形)、絵付け(筆による手描き)、釉薬の調合、焼成の温度管理、壁面への設置工法——複合的な技術が必要。これらを一貫して扱える職人は、ポルトガル全体で数百人程度とされる。

新しいタイルを焼いて「古く見せる」技術もある。修復現場では、劣化したタイルを取り外し、同じデザイン・色彩のタイルを新規制作して差し替える。しかし、200年前のタイルの色味を完全に再現するのは極めて困難だ。釉薬の成分が当時と異なり、焼成温度も窯によって違う。

リスボン市はアズレージョの修復職人を育成するプログラムを運営しているが、年間の修了者は10〜20人程度。需要に対して供給がまったく追いついていない。

修復のジレンマ

建物のオーナーが壁面のタイルを修復する場合、その費用は壁面の広さとタイルの状態によるが、1棟あたりEUR 5,000〜50,000(約80万〜800万円)程度。歴史的価値のあるタイルの修復は、さらに高額になる。

リスボンやポルトでは自治体が修復助成金を出しているケースもあるが、全額をカバーするものではない。結果として、オーナーがタイルを全部剥がしてペンキで塗ってしまう——文化遺産の視点からは最悪の選択肢だが、経済的には最も合理的な選択だ。

一方で、Airbnb需要の高まりで観光客向けにリノベーションされた建物には、新しくアズレージョが貼られている。ただしこれは工場生産の量産品で、手描きの伝統的な技法とは別物。見た目は似ているが、文化的な連続性は断たれている。

ポルトのリベイラ地区を歩くと、1つの通りの中にこの全てが混在している。200年前のオリジナルタイルが残る壁面。半分剥がれて放置された壁面。新品の量産タイルが貼られたリノベ物件。ペンキで塗られた元タイル壁。

ポルトガルのアズレージョは「美しい伝統」として語られがちだが、実態は「維持できなくなりつつある文化遺産」だ。職人が引退し、建物が朽ち、オリジナルが盗まれていく速度に、修復の速度が追いついていない。

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