シンガポールの図書館は本を貸す場所ではない——都市国家が設計した「第三の居場所」
シンガポールの公共図書館は年間利用者数2,800万人以上。しかしその設計思想は「読書の場」ではなく「家でも職場でもない場所」の提供にある。HDB住民の狭い住居事情と図書館の関係を読み解く。
この記事の日本円換算は、1SGD≒115円で計算しています(2026年4月時点)。為替は変動するので、現地通貨(SGD)の金額を基準にしてください。
シンガポール国立図書館庁(NLB)が運営する公共図書館は全国に28ヶ所ある。人口560万人の国で28館は多い方だ。東京23区の公共図書館が約200館なので密度としては同程度。だが、シンガポールの図書館の使われ方は日本のそれとはかなり違う。
図書館が「家の延長」になる理由
シンガポールのHDB(公営住宅)は3ルーム(約60m²)や4ルーム(約90m²)が主流だ。ここに3〜5人の家族が暮らす。子どもが2人いれば、自分の部屋で静かに勉強するスペースの確保は難しい。
図書館はこの問題の受け皿になっている。学校が終わった午後2時以降、図書館の自習席は学生で埋まる。特に試験期間(5月と10月〜11月)は朝の開館前から行列ができる。NLBは2019年にオンライン座席予約システムを導入したが、人気館は予約開始と同時に埋まる状況だ。
紀伊國屋という存在
シンガポール最大の書店はオーチャードロードの高島屋内にある紀伊國屋書店だ。4,000m²超の売場面積を持ち、英語書籍・日本語書籍・中国語書籍が揃う。シンガポール在住の日本人にとっては、日本語の新刊が買える数少ない場所だ。
日本語書籍の価格は定価の1.5〜2倍。1,500円の文庫本が3,000〜4,000円相当になる。輸送コストと小規模市場ゆえの割高さだが、Kindleの普及でこの価格差を受け入れる人は減っている。
それでも紀伊國屋が「場所」として機能し続けているのは、本を手に取って選ぶ体験と、日本語に囲まれた空間そのものに価値があるからだ。高島屋の地下で日本食を買い、4階の紀伊國屋で本を買う——この動線はシンガポール在住の日本人の週末ルーティンの一つになっている。
NLBの設計思想
NLBの図書館は「読書」だけでなく、メイカースペース、音楽スタジオ、プログラミング教室、多目的ホールを併設しているところが多い。library@harbourfront(ビボシティ内)にはグリーンスクリーンの動画撮影スタジオがある。本を借りに来る場所ではなく、「やりたいことをやる場所」として設計されている。
この思想の背景にはシンガポール政府の生涯教育政策(SkillsFuture)がある。図書館を学習と技能習得の拠点として位置づけ、国民の生産性向上に直結させる。実利的なシンガポールらしい発想だ。
中古本市場がほぼ存在しない
日本のブックオフに相当するチェーン店はシンガポールにない。中古本はBooksActually(独立書店、現在は移転しオンライン中心)やチャリティショップで少量売られる程度。市場として成立していない。
理由はいくつかある。住居が狭いので本を溜め込むスペースがない。英語書籍はKindleやAudibleに流れている。そして、中古品全般に対する文化的な抵抗がある——新品を好むシンガポール人の消費性向は、不動産(中古HDBの人気の低さ)にも共通する。
電子書籍と図書館の共存
NLBはOverDriveやLibby経由で電子書籍・オーディオブックの無料貸出を行っている。図書館カード(登録無料、シンガポール居住者なら外国人も取得可能)があれば、英語・中国語の電子書籍を自宅から借りられる。
日本語の電子書籍は残念ながらNLBのコレクションに含まれていない。日本語の本はKindleで自前購入するしかない。だが英語の読書量を増やしたいなら、NLBの電子書籍は無料で大量に読めるインフラとして極めて優秀だ。
在住者にとっての図書館
シンガポールの図書館は「エアコンの効いた無料の作業スペース」として最強だ。カフェでコーヒーを買う必要もなく、座席も広い。WiFiも使える。
在住日本人で活用している人は意外と少ない。「英語の本しかない」という先入観が大きいが、実は中国語・マレー語・タミル語のコレクションも充実しており、多言語環境で暮らすシンガポールらしい蔵書構成になっている。日本語書籍はないが、子ども向けの英語絵本コーナーは在住日本人の子育て世帯に人気がある。
図書館カードの取得はOrchard LibraryやJurong Regional Library等のカウンターで、パスポートとシンガポールの住所証明があれば10分で完了する。年会費は外国人でも10.50SGD(約1,210円)。この金額で年間16冊まで同時に借りられる。