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シンガポールのホーカーセンターで、今まさに消えつつあるもの

2020年にユネスコ無形文化遺産に登録されたシンガポールのホーカー文化。しかしベテラン料理人の高齢化と後継者不足は深刻で、登録と保存は別の話だ。

2026-04-08
シンガポールホーカーセンター食文化UNESCO職人

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ユネスコの「無形文化遺産」に登録された翌年から、その文化が消えていくことがある。

2020年12月、シンガポールのホーカー文化がユネスコ無形文化遺産に登録された。シンガポールにとって初の登録だった。ニュースは世界に流れ、多くの人が「守られた」と感じた。しかし登録は保存の終着点ではなく、起点にすぎない。登録の翌年から、現場ではスタンドの閉鎖が続いている。

ホーカーセンターとは何か

ホーカーセンターは、屋根付きのオープンエアフードコートだ。シンガポール全土に100カ所以上あり、チキンライス(海南鶏飯)、ラクサ、チャークイティオ、バクテーなど多民族の料理を安価で提供している。

価格帯はSGD3〜6(約345〜690円)が中心で、これはシンガポールの物価水準では破格だ。50㎡のマンションが月SGD2,800(約32万円)を超える国で、朝食がSGD3以下で食べられる場所が維持されている。

この価格帯が維持できる理由は、多くのスタンドが数十年前から同じ場所で同じメニューを出し続けており、設備投資も家賃も低く抑えられているからだ。裏を返せば、スタンドが閉まると、同じ価格帯での後継が成立しにくい。

数字で見る後継者問題

現在、シンガポールのホーカースタンドを運営している料理人の多くは60代〜70代だ。国家環境庁(NEA)の調査では、ホーカーの平均年齢は60歳を超えているとされる。

若者がホーカー業に入らない理由は複数ある。まず労働時間だ。多くのスタンドは朝5〜6時から夜まで営業する。年間休日は少なく、休みを取るにも後継がいないため店を閉めることになる。次に収益性だ。物件コストが上がる中、SGD3〜6の価格帯を維持しながら食材費・光熱費・人件費を賄うのは年々難しくなっている。食材費だけで売上の40〜60%を占めるケースも多い。

2023年、シンガポールでは老舗スタンドの閉鎖が相次いだ。登録後の観光需要増が「保存」につながらなかった事例の一つだ。

後継者制度という試み

シンガポール政府は問題を認識している。NEAは2021年から「ホーカー承継スキーム」を導入した。引退するホーカーが血縁以外の後継者にスタンドを引き渡せるようにし、技術と場所の承継を制度的に支援するものだ。

ただし、これが機能しているかどうかは評価が分かれる。場所とスタンドは引き継げても、レシピは個人の身体に染み込んだものであり、そう簡単には移転できない。

楽器に喩えると分かりやすい。バイオリンは名器でも弾き手が変われば音が変わる。ホーカーのスタンドは設備であり場所だが、料理の質は料理人の手と時間の累積だ。ミシュランの星を取ったチキンライスのスタンドが後継者に引き渡された後、長年の常連客が「前と違う」と感じる——これは現地でよく聞く話だ。

消えていくのは料理だけではない

ホーカーセンターで消えつつあるのは、特定の料理だけではない。

「チャークイティオ(炒粿條)」は焼きビーフンに近い広東系の麺料理で、調理に数十年の経験を要するとされる。鉄鍋の温度管理、タイミング、煙の使い方——これを完全に再現できる職人は少なく、高齢化が進んでいる。

バクテー(肉骨茶)も同様だ。ポーク肋骨と漢方スパイスを長時間煮込む料理で、スパイスのブレンドは各店が独自に持つ。レシピを書き残すことは可能だが、「どのタイミングでどう判断するか」は言語化できない部分が多い。

こういった暗黙知は、師匠から弟子へ何年もかけて伝わるものだ。後継者が来なければ、次の世代への伝達が物理的に起きない。ユネスコの登録は外部から価値を認定できるが、知識の移転は当事者間でしか起きない。

外から来た人間がホーカーに行く意味

シンガポールに住む外国人として、ホーカーセンターは最もローカルな文化に接触できる場所の一つだ。

高級レストランとショッピングモールのフードコートの間には、ホーカーセンターという独特の「公共空間」がある。多民族が同じテーブルで食事し、あるスタンドでチキンライスを買い、別のスタンドでタイガービールを買い、また別のスタンドでデザートを買う。「一つの店で一つのコース」ではなく、「複数のスタンドを渡り歩くカジュアルな食事の場」という形態は、シンガポール固有のものだ。

この空間が縮小していくとき、何かが失われる——それが何かを正確に言葉にするのは難しい。でも、20年後に同じ場所を訪れたとき、今と同じものが食べられる保証はない。

行けるうちに、行く価値がある。


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