Kaigaijin
食・グルメ

ホーカーの後継者がいない——シンガポールの食文化遺産をめぐる静かな危機

ユネスコ無形文化遺産にも登録されたシンガポールのホーカー文化が、後継者不足という深刻な問題に直面している実態を解説。ホーカーオーナーの収入・労働時間・政府の対応策もあわせて紹介。

2026-04-14
ホーカー食文化シンガポール社会ユネスコ

この記事の日本円換算は、1SGD≒115円で計算しています(2026年4月時点)。為替は変動するので、現地通貨(SGD)の金額を基準にしてください。

朝6時にホーカーセンターへ行くと、すでに火がついている。70代のおじいさんが一人でコンロの前に立ち、チキンライスのスープを煮込んでいる。この光景が、あと10年で消えるかもしれない。

ホーカー文化とユネスコ登録

シンガポールのホーカー文化は2020年にユネスコ無形文化遺産に登録された。チキンライス・チャークイティオ・ラクサ・バクテー——これらの料理を数SGD(数百円)で食べられる場所が全島に100以上ある。

ホーカーセンターはもともと、1960〜70年代に路上の屋台を衛生的・集中的な施設に移転させたことで始まった。建設・運営はHDB(住宅開発庁)やNEA(国家環境庁)等の政府機関が担っており、ストールのリース料は政府が設定する。これが料理の価格を安く保てる理由のひとつだ。

後継者問題の実態

問題の核心はシンプルだ。ホーカーは重労働で、収入は高くない。次の世代がやりたがらない。

労働条件の厳しさ:

  • 早朝(5〜6時)から深夜まで、週6〜7日
  • 仕込みを含めると1日12〜16時間以上
  • 食材の仕入れ・調理・販売・清掃をほぼ一人でこなす
  • 冷房なしの厨房での作業(気温35℃以上になることも)

収入の実態: ストールの売上は月10,000〜30,000SGD(115〜345万円)程度のケースが多い(人気店はこれ以上)。ただしそこから食材費・リース料・水光熱費・補助スタッフ費用を引くと、オーナーの手取りは月4,000〜8,000SGD(46〜92万円)程度になることが多い。高学歴・専門職のサラリーマンとの差は小さくない。

親世代は「苦労して子供を育てた。子供には同じ苦労をしてほしくない」という意識が強い。子供たちは大学に進学し、ホワイトカラーの仕事を選ぶ。後継者がいないまま親世代が引退すると、そのストールの料理は消える。

消えていくメニューたち

現実に、特定の料理を作れるホーカーが減っている。

ケーザンターン(海南チキンライスの一変種)・オータ(魚のすり身スパイス焼き)・リャン・クエ(伝統的な中国系お菓子)といった料理は、作れる職人が数十人単位にまで減っているものもある。「あの店のチャークイティオが好きだったのに、店主が高齢でやめた」という話は珍しくない。

政府の対応策

危機意識を持ったシンガポール政府はいくつかの施策を打っている。

ホーカー育成プログラム(HAP): NEAとNTUC(労働組合系組織)が共同で運営。ストールの開業支援・研修・リースの優遇を提供。新規参入者が比較的低リスクで始められる仕組みを整えている。

家賃補助と場所の確保: 政府系センターでは、入札価格ではなく抽選形式でのストール割当も行われており、新規参入のハードルを下げている。

料理の標準化・記録保存: 特定の伝統料理のレシピ・調理法をNHB(国家遺産委員会)が記録・保存するプロジェクトも進んでいる。

ただし、これらの施策が後継者問題の根本的な解決になるかは未知数だ。経済的なインセンティブが変わらない限り、若者がホーカーを選ぶ動機は生まれにくい。

新世代ホーカーという動きも

一方で、若い世代が意識的にホーカーに飛び込む事例も出てきている。

大学卒業後にサラリーマンをやめてホーカーを始めた30代が、SNSで話題になることがある。「5時起きの生活でも、自分の料理を出す満足感がある」「収入は会社員時代より増えた」という声もある。新世代ホーカーの中には、Instagram・TikTokを活用して行列店になったケースもある。

ただしこれは例外だ。10年後も同じ場所に同じメニューがあるとは限らない、という現実は変わっていない。

在住者として感じること

「あのホーカーがなくなった」という話は、在住者コミュニティでよく聞く。長く住むほど、好きな店が閉まる体験をする頻度が上がる。

旅行者が「シンガポールの食事は安くておいしい」と言うときに見ている風景の裏に、後継者を見つけられないまま70代・80代まで働き続けている店主がいる。その店主が引退する日に、その料理は消える。ホーカー文化を楽しむことと、それが変化の途上にあることを同時に意識しておく価値はある。

コメント

読み込み中...