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ホーカーの後継者がいない——ユネスコ登録の裏で進む世代交代の危機

シンガポールのホーカー文化は2020年にユネスコ無形文化遺産に登録された。しかし現役ホーカーの平均年齢は60歳を超え、跡を継ぐ若者はほとんどいない。登録と消滅が同時進行している現実。

2026-05-09
シンガポールホーカーユネスコ後継者世代交代

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2020年12月、シンガポールのホーカー文化がユネスコ無形文化遺産に登録された。登録理由は「多民族社会における食の共有文化」だ。しかしこの登録が発表された時、シンガポール国内で聞こえた声には祝福だけでなく、皮肉も混じっていた。「遺産に登録されるということは、もう消えかけているということだろう」。

ホーカーの平均年齢

シンガポール国立環境庁(NEA)の調査によると、ホーカーストール(屋台)の運営者の平均年齢は60歳を超えている。70代、80代で毎日店に立っているホーカーも珍しくない。チャイナタウン・コンプレックスやマクスウェル・フードセンターの老舗ストールを覗けば、白髪の調理人が朝5時から仕込みをしている光景が日常だ。

問題は、その次の世代がいないことだ。ホーカーの子どもの多くは大学を出てオフィスワークに就いている。「朝4時に起きて仕込み、夜8時まで立ちっぱなしで、月収SGD 3,000〜5,000(約34.5万〜57.5万円)」という親の仕事を引き継ごうとする人は少ない。

月収SGD 3,000の現実

ホーカーストールの月間収益は、立地とメニューによって大きく異なる。人気の麺ストールで月商SGD 15,000〜25,000(約173万〜288万円)だが、ここから食材費(約30〜40%)、ストールの賃料(SGD 1,500〜3,000/月)、アシスタントの人件費、光熱費を引くと、オーナーの手取りはSGD 3,000〜5,000程度になる。

シンガポールの大卒初任給がSGD 3,500〜4,500(約40.3万〜51.8万円)であることを考えると、ホーカーの収入は決して低くない。しかし労働時間が週70〜80時間に達することを考慮すると、時給換算ではオフィスワークに大きく負ける。加えて、CPF(年金積立)を自分で拠出する必要がある自営業の立場が、若い世代の参入障壁になっている。

政府の対策

NEAは後継者不足への対策として、いくつかの施策を打っている。

Hawker Development Programme(HDP): 新規ホーカーの開業を支援するプログラム。ストールの賃料を最初の3年間で段階的に引き上げる「Subsidised Stallスキーム」を提供し、初期投資のリスクを下げている。

Incubation Stall Scheme: 新規参入者に低賃料のストールを提供し、15ヶ月の「お試し期間」を設ける制度。賃料はSGD 200〜500/月で、通常の3分の1程度だ。

Social Enterprise Hawker Centres: NEAが民間のソーシャルエンタープライズに運営を委託する新型ホーカーセンター。Our Tampines Hub、Ci Yuan等がこのモデルで、若いホーカーの入居を積極的に受け入れている。

「新世代ホーカー」の挑戦

2010年代後半から、大学や外資系企業を辞めてホーカーに転身する若い世代が少数ながら現れている。メディアで「Young Hawker」として取り上げられることも多い。

ただし、彼らの多くは伝統的なホーカーメニュー(チキンライスや魚圓麺)ではなく、和食フュージョンやクラフトバーガーなど、既存のホーカーとは異なるジャンルで参入している。「おじいちゃんのチキンライスの味を受け継ぐ」タイプの後継者はごく少数だ。

これは後継者問題の解決というよりも、ホーカー文化自体の変質を意味している。伝統的なレシピが次の世代に渡らないまま、ストールのオーナーが引退していく。

在住日本人が見るホーカーの日常

シンガポールに住む日本人にとって、ホーカーセンターは日常の食事の場だ。チキンライスSGD 4〜5(約460〜575円)、ラクサSGD 5〜6(約575〜690円)。オフィス街のレストランの3分の1の価格で食事ができる。

よく通うホーカーセンターで、なじみのストールが突然閉まっていることがある。張り紙もなく、ただシャッターが降りている。数日後に通りかかると、別のテナントの内装工事が始まっている。常連客にとっては、味がひとつ消えた瞬間だ。

登録と消滅の同時進行

ユネスコの登録は「この文化を守る」という宣言ではなく、「この文化が危機にある」という認定でもある。日本の和食がユネスコ無形文化遺産に登録された時、日本国内の食文化が劇的に変わったわけではなかった。シンガポールのホーカー文化も同じだ。登録されても、後継者がいなければストールは閉まる。

ホーカーセンターという場所自体は、政府の投資で維持される。しかし中身——あの80代のおばあちゃんが作る魚圓麺の味——は、政策では守れない。ホーカー文化の本質は建物ではなく人の技術にあり、その技術の伝承がいま止まりかけている。

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