シンガポールのHDB政策は住宅政策じゃなくて、社会工学だ
HDBの民族割当(ECRP)は住宅供給ではなく強制的な多文化共生装置。民族暴動の歴史から続く社会設計の文脈で、シンガポールの住宅政策を読む。
シンガポール国民の約80%がHDB(Housing and Development Board)の公共住宅に住んでいる。これだけなら「公営住宅が充実した国」の話だ。でもHDBの本当の機能は住宅供給ではない。異なる民族を物理的に混ぜることで、社会の分裂を構造的に防ぐ装置だ。
民族割当制度(ECRP)
HDBにはEthnic Integration Policy(EIP)、正式にはEthnic Quota for HDB(ECRP的な運用)と呼ばれる制度がある。1989年に導入されたこの制度は、各HDB棟およびブロック内の民族比率を制限している。
中国系は棟の約87%以下、ブロックの約84%以下。マレー系は棟の約25%以下、ブロックの約22%以下。インド系・その他は棟の約15%以下、ブロックの約13%以下。
数字の細かさは時期や地区によって変動するが、原則は一貫している。「特定の民族が集中しすぎないようにする」ことだ。
つまり、HDBの部屋を売買する際、その取引によって民族比率の上限を超える場合は売買が成立しない。自分のフラットを売りたくても、買い手の民族によっては売れないことがある。
なぜこんな制度があるのか
1964年。シンガポールがまだマレーシア連邦の一部だった時代に、大規模な民族暴動が起きた。中国系とマレー系の衝突で、死者が出た。1969年にもマレーシアで「5月13日事件」が発生し、その余波がシンガポールにも及んだ。
リー・クアンユーは独立直後のシンガポールで、民族間の対立が国家を崩壊させうる最大のリスクだと認識していた。多民族国家が安定するためには、民族ごとに地域が分かれる「ゲットー化」を絶対に防がなければならない。
自然に任せると、人間は同じ民族・同じ言語の人間の近くに住みたがる。中国系は中国系が多い地域に、マレー系はマレー系が多い地域に集まる。これが進むと、地域ごとに民族の「領域」ができ、接点が減り、偏見が固定化し、最悪の場合は暴動が再発する。
EIPはこの「自然な集住傾向」を国家の力で阻止する制度だ。
強制的な多文化共生
EIPの結果、HDBの各棟には必ず複数の民族が混在している。隣の部屋がマレー系、上の階がインド系、向かいが中国系——こういう状況が普通だ。
これは「自然に仲良くなれ」という話ではない。もっと実利的な設計だ。
同じ棟に住んでいれば、エレベーターで顔を合わせる。子どもが同じ遊び場で遊ぶ。ハリラヤ(マレー系の祭日)とディーパバリ(インド系の祭日)と中国正月の飾りが同じ廊下に並ぶ。
日常的な接触は、偏見を減らす最も効果的な方法だ。社会心理学の「接触仮説(contact hypothesis)」が示すように、異なるグループが対等な立場で日常的に接触する環境では、偏見が減少する傾向がある。
HDBはこの接触仮説を都市設計レベルで実装した制度だと言える。
自由の制限
この制度には明確なコストがある。個人の居住選択の自由が制限されること。
「このフラットに住みたい」と思っても、民族枠が埋まっていれば住めない。「自分のフラットを売りたい」と思っても、買い手の民族が枠に引っかかると売れない。これは不動産取引における明確な制約であり、物件の流動性(転売のしやすさ)にも影響する。
少数派(特にマレー系)の物件は、購入者の民族枠が限られるため、中国系の物件より流動性が低くなる場合がある。これは少数派に不利に働く可能性がある。
シンガポール政府はこのトレードオフを認識した上で、「社会の安定」が「個人の選択の自由」より優先されるという判断をしている。この判断が正しいかどうかは、立場によって見方が変わる。
他国との比較
アメリカは「Fair Housing Act(公正住宅法)」で、人種に基づく住宅差別を禁止している。でもこれは「差別をしてはいけない」という消極的な規制であり、「混住を強制する」積極的な政策ではない。結果として、アメリカの都市は民族ごとの居住分離が進んでいる。
フランスのバンリュー(郊外の公共住宅地域)は、移民が集中し、結果的にゲットー化が進んだ。2005年の暴動は、居住分離が社会的排除につながった事例だ。
シンガポールのEIPは、これらの国が「自然に任せた結果」として直面している問題を、事前に制度で防いでいるとも言える。
HDBのもう一つの機能——持ち家率
HDBにはもう一つ社会工学的な機能がある。国民の持ち家率を高めること。
シンガポールの持ち家率は約90%で、世界最高水準だ。HDBは99年リースで販売され、CPF(中央積立基金)——給与から自動天引きされる強制貯蓄——を使って購入できる。
リー・クアンユーの発想は単純だった。「自分の家を持っている人間は国を守る」。持ち家というステイク(利害関係)を国民に持たせることで、国への帰属意識を高める。
賃貸住民は引っ越せばいいが、持ち家の住民は国の安定に利害がある。国が混乱すれば不動産価格が下がり、自分の資産が毀損される。だから秩序を支持する。
住宅政策を通じて国民のインセンティブ構造を設計する——これが「社会工学としてのHDB」の本質だ。
住まいを通じた国づくり
HDB政策を「住宅政策」として読むと、「公共住宅が充実している」で終わる。「社会工学」として読むと、民族統合・社会安定・国家への帰属意識構築・不動産資産を通じた秩序維持——これらが一つの制度の中に組み込まれていることが見える。
シンガポールは、住まいというインフラを通じて国を設計した。これが良いことかどうかは、個人の自由をどこまで重視するかによって答えが変わる。
ただ一つ確かなのは、独立から60年間、民族暴動は再発していないという事実だ。