田舎のない国で育つということ——シンガポールに「故郷の原風景」がない意味
シンガポールにはいわゆる田舎がない。全土が都市である国で育つ人々のアイデンティティと、原風景を持たない社会の独特な感覚を文化の視点から考える。
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「あなたの田舎はどこ?」という問いが、ほとんど成立しない国がある。
日本人の多くは、都会に住んでいても心のどこかに「帰る田舎」や「育った原風景」を持っている。棚田、商店街、夏祭りの記憶。だがシンガポールには、その意味での田舎がない。全土が都市だ。田畑も山村も漁村も、ほとんど残っていない。原風景を持たない社会は、どんな感覚で成り立っているのか。
「都市しかない」という珍しさ
世界の多くの国は、都市と地方の二層構造を持つ。人は都市で働き、地方に帰省し、両者の往復の中でアイデンティティを編む。
シンガポールにはこの二層がない。島全体が一つの都市として完結している。週末に「自然に帰る」なら、整備された公園や、隣国へ国境を越えていく。手つかずの田舎が国内に存在しないのだ。これは欠落ではなく、面積の制約と都市化政策が生んだこの国に固有の状態だ。
故郷を思うとき、田んぼではなく団地を、川ではなく運河を思い浮かべる。原風景が、はじめから都市の風景でできている。
急速な変化が記憶を上書きする
もう一つの特徴は、街そのものが絶えず作り変えられることだ。
シンガポールは再開発が速い。子どもの頃に遊んだ場所が、十数年後には別の建物に変わっている。原風景があったとしても、それが物理的に保存されにくい。記憶の中の風景と、目の前の風景が一致しない。故郷が、土地ではなく記憶の中だけにある状態だ。
これは喪失でもあり、身軽さでもある。場所に縛られないぶん、変化に適応しやすい。過去にしがみつかない社会の速さは、原風景を持たないことと無関係ではない。
アイデンティティを「場所」以外に置く
田舎という共通の拠り所がないと、人は何で自分を定義するのか。
シンガポールでは、出身の村ではなく、民族・言語・学校・職業・住む団地といった要素がアイデンティティを構成する。土地に根ざすより、社会の中の位置で自分を語る傾向が強くなる。故郷の代わりに、所属が自己を支える。
これは、国境を越えて働く現代の人々の感覚に近い。移動が前提の時代に、場所に縛られないアイデンティティは、むしろ適応的かもしれない。
駐在員にとっての鏡
海外で暮らす日本人は、ふと「自分の故郷」を思って郷愁に浸ることがある。だがシンガポールの人々は、その郷愁の対象を最初から都市として持っている。
故郷とは何か、原風景とは何か。それは普遍的なものではなく、その土地の歴史と政策が形づくるものだ。田舎のない国で育つことの意味を考えると、自分にとっての故郷の輪郭も、少し違って見えてくる——という見方ができる。