HDB(公団住宅)の歴史と社会設計——なぜシンガポールは均質な住宅政策をとったのか
シンガポール国民の約80%が暮らすHDB。建国から60年以上にわたる公団住宅政策の歴史と、多民族国家の統合という社会目標との関係を解説する。
シンガポール国民の約80%がHDB(Housing & Development Board)が管理する公団住宅に住んでいる。これは偶然ではなく、建国時から意図された社会設計の結果だ。
HDB設立の背景
1960年、シンガポールがマレーシアから独立する直前、島の住宅状況は深刻だった。カンポン(村落)と呼ばれる粗末なスラム地帯に多くの人が密集し、衛生・治安・火災リスクが問題になっていた。
HDBは1960年に設立され、翌年から大規模な公営住宅建設を開始した。最初の5年計画(1960〜1965年)で5万戸以上を建設し、カンポン住民を強制的に移転させた。
当時の指導者リー・クアンユーは「住宅所有が市民を安定させ、国家への帰属意識を育てる」という信念のもとでこの政策を推進した。
民族割当(Ethnic Integration Policy)
1989年に導入されたEthnic Integration Policy(EIP)は、HDB各ブロックに民族比率の上限を設けるものだ。
現行の割当比率(おおよそ):
- 中国系: 76%上限
- マレー系: 13%上限
- インド系/その他: 11%上限
これはシンガポールの民族構成(2020年国勢調査: 中国系74.3%、マレー系13.5%、インド系9.0%)にほぼ対応している。
この政策の目的は、民族ごとの居住地区が固定されること(ゲットー化)を防ぐことだ。独立前のシンガポールには民族ごとの固有地域(チャイナタウン・リトルインディア・アラブストリート等)があり、1964年には民族対立による暴動が起きた歴史がある。
住宅所有率という数字
シンガポールの住宅所有率は約90%(2023年時点)。この数字がなぜ高いかというと、CPF(Central Provident Fund、年金制度)をHDBの購入に充当できる仕組みがあるためだ。
毎月の給与からCPFとして積み立てられる金額(給与の20%、雇用主拠出分を含めると37%)をHDB購入に使える。これにより現金なしでも住宅を「買える」状態が生まれた。
外国人にとってのHDB
外国人はHDBを購入できない(PRは一定条件下で可能)。賃借のみ許可されており、ここが在住外国人とローカルの住宅体験の最大の差だ。
月$2,500〜3,500(約29〜40万円)でHDBを借りることはできるが、「自分が住んでいるこの建物は、国家の社会設計の一部だ」という感覚はなかなか持ちにくい。観光ガイドには載らない、シンガポール社会の根幹として理解しておく価値がある政策だ。
今のHDB
近年のHDB(BTO: Build-To-Order方式)は4〜5室のモダンな設計になっており、「公団住宅=粗末」というイメージはもはやない。一方で市場価格の高騰により、新婚カップルが希望エリアのBTOに当選するまで数年待つケースも珍しくない。住宅政策は今もシンガポールの国内政治の最重要テーマのひとつだ。