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政府はシングリッシュを殺そうとした——Speak Good English MovementとSinglishの20年戦争

シンガポール政府は2000年から「正しい英語を話そう」運動を展開し、シングリッシュの撲滅を目指した。結果は逆だった。なぜシングリッシュは国家権力に勝ったのか。

2026-05-09
シンガポールシングリッシュ言語政策Speak Good Englishアイデンティティ

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シンガポール政府は2000年に「Speak Good English Movement(SGEM)」を立ち上げた。目的は明確で、シングリッシュ(Singlish)の使用を減らし、標準英語を国民に浸透させることだった。当時のゴー・チョクトン首相は「シングリッシュは英語力の低い人が話す壊れた英語だ」という趣旨の発言をしている。25年が経った今、シングリッシュは消えるどころか、シンガポール人のアイデンティティの象徴として定着している。

なぜ政府はシングリッシュを問題視したのか

シンガポールの公用語は英語・中国語・マレー語・タミル語の4言語だ。ビジネスと行政の共通語は英語であり、英語運用能力は国家の競争力に直結する。

政府の懸念は具体的だった。シンガポール人の英語が国際ビジネスの場で通じないケースがあること、外国企業の幹部がシンガポール人の英語を理解できないという苦情が出ていたこと、そして若い世代がシングリッシュしか話せず標準英語に切り替えられないケースが増えていたことだ。

SGEMはテレビCM、ポスター、学校教育、ワークショップを通じて「Use Standard English(標準英語を使おう)」を推進した。

シングリッシュが消えなかった理由

SGEMは開始から数年で、国民からの強い反発に直面した。「シングリッシュは壊れた英語ではなく、独自の言語だ」という主張がSNSや投書で噴出したのだ。

言語学者の間でも、シングリッシュは「英語の間違い」ではなく、英語・中国語(福建語・広東語・潮州語)・マレー語・タミル語が混ざって独自の文法規則を持つ「クレオール言語」に近いものだという見解がある。「lah」「leh」「lor」「meh」等の語尾助詞は、ニュアンスを表現する体系的な機能を持っており、単なる間違いではない。

結局、多くのシンガポール人は「フォーマルな場では標準英語、友人や家族との会話ではシングリッシュ」というコードスイッチング(場面に応じた切り替え)を自然に行っている。政府が「シングリッシュをやめろ」と言っても、使う場面が違うだけで排除にはならなかった。

オックスフォード辞書に載る

2015年、オックスフォード英語辞典(OED)にシングリッシュ由来の単語が複数追加された。「lah」「shiok(最高に良い)」「blur(ぼんやりしている)」「chope(席を取る)」「wah(驚きの感嘆詞)」などだ。

OEDへの掲載は、シングリッシュが「壊れた英語」ではなく「認知された英語の変種」であることの国際的な承認と受け取られた。シンガポール国内では「やっぱりシングリッシュは言語だった」という空気が広がった。

在住日本人とシングリッシュ

シンガポールに住む日本人の多くは、最初にシングリッシュの洗礼を受ける。ホーカーセンターで注文する時の「Want what ah?(何にする?)」、タクシーで行き先を告げた後の「Can, can(OK、OK)」——これらは標準英語の教科書には出てこない。

英語に自信がある人ほど戸惑うことがある。文法的に正しい英語で話しているのに、相手の返答が全く聞き取れないからだ。逆に、英語に自信がなくても、キーワードだけ言えば通じる場面が多い。シングリッシュは「完璧な英語」よりも「意思疎通のスピード」を優先する言語だからだ。

駐在員の中には、数ヶ月でシングリッシュの語尾助詞を自然に使い始める人がいる。「Can lah」「No lah」と言えるようになった時、ローカルの同僚との距離がぐっと縮まったという話はよく聞く。

「正しい英語」の呪縛が解けた

SGEMは現在も公式には続いている。しかし2010年代以降、トーンは明らかに変わった。「シングリッシュを撲滅する」から「場面に応じて使い分ける」へシフトしている。2016年のナショナルデー(建国記念日)のキャンペーンでは、政府自身が「lah」を使った広告を出した。かつて敵視していた言葉を、国民統合のツールとして使い始めたのだ。

言語政策で国民のアイデンティティを管理しようとしたシンガポール政府が、最終的にシングリッシュに「負けた」——これはシンガポールの統制型社会の中では珍しい、ボトムアップが勝った事例だ。

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