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文化・社会

HDBの1階はなぜ空なのか——ボイドデッキが設計された本当の理由

シンガポールの公共住宅(HDB)1階に広がる「ボイドデッキ」。葬儀、結婚式、子どもの遊び場として機能するこの空間が、多民族共存のためにどう設計されたかを解説。

2026-04-13
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シンガポールのHDB(公共住宅)団地に初めて足を踏み入れた日本人が、たいてい首をかしげる光景がある。1階がまるごと吹き抜けになっており、柱だけが立っている。テナントも住戸もない。ただ広い空間が広がっている。

これが「ボイドデッキ(Void Deck)」だ。

設計の意図——偶然の産物ではない

1970年代、シンガポール政府は急増する人口を収容するために高層の公共住宅を大量建設していた。その過程で、HDB(Housing & Development Board)は「1階を住居や商業スペースにしない」という意識的な選択をした。

理由は多民族社会における「共有の場」の創出だ。

中国系、マレー系、インド系が混住するHDBで、宗教・民族ごとの慣習は大きく異なる。マレー系ムスリムの葬儀はイスラムの様式に沿った屋外儀式を必要とする。中国系の冠婚葬祭も、廊下や共用スペースを使う場合がある。

ボイドデッキはこれらの儀式のための場として機能する。葬儀の祭壇が設置され、近隣住民が弔問に訪れる。結婚披露宴のテーブルが並ぶ。子どもたちがバドミントンをする。特定の宗教・民族に占有されない「中立の空間」として設計された。

現代のボイドデッキ

今日のボイドデッキには、ベンチやテーブルが置かれ、お年寄りが将棋(チェス)を楽しむ場所になっていることが多い。一部は居住者向けの集会所や保育施設として活用されている。

完全に空のボイドデッキは減りつつある。政府は2000年代以降、一部を商業施設や社会サービス窓口に転用することを認めるようになった。それでも、葬儀や結婚式に使われる「予約可能な共有スペース」としての機能は今も生きている。

HDBの管理組合(Town Council)ではボイドデッキの利用を申請制にしており、数日間の祭事のために借りることができる。料金は象徴的な額だ。

都市設計の「余白」が持つ意味

日本のマンションや公団住宅と比較すると、ボイドデッキの存在は独特だ。日本の集合住宅は1階も住戸か駐輪場・ロビーで、「何も置かない広い空間」を意図的に作ることは少ない。

ボイドデッキは「使われない空間は無駄」という効率の論理よりも、「人が集まれる余白が社会的結束を作る」という設計哲学を優先した結果だ。

経済効率の高いシンガポールが、HDB全体で膨大な床面積をあえて「空っぽ」にし続けているのは、それが多民族共存のコストとして合理的だという判断があるからだ。

外国人居住者にとっての意味

駐在員や長期滞在者の多くはコンドミニアムに住むため、ボイドデッキに縁がないことが多い。ただ、シンガポール人の友人や同僚のHDBで葬儀・結婚式への招待を受けた場合、ボイドデッキで行われることが多い。

そこで何が行われているかを知っていれば、シンガポールの都市設計思想と多民族社会のリアルを少し深く理解できる。「なぜ1階が空なのか」という問いへの答えは、シンガポールが独立以来抱えてきた課題と直結している。

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