ボイドデッキで結婚式、ボイドデッキで葬式——HDB 1階が人生儀礼の会場になる国
シンガポールのHDB(公共住宅)1階の空間「ボイドデッキ」では、結婚披露宴と葬儀が同時に行われていることがある。同じ空間が人生の祝福と別れの両方を引き受ける構造を書く。
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シンガポールのHDB(公共住宅)に住む人の約8割が、人生で一度はボイドデッキで行われた結婚式か葬儀に出席したことがあるだろう。HDBの1階にある柱だけの空間——エアコンはない、壁もない、天井の高さだけがある——そこにテントを張って、テーブルを並べて、何百人もの人が集まる。ホテルの宴会場ではなく、自宅の真下で。
なぜボイドデッキなのか
シンガポールの結婚披露宴をホテルやレストランで行う場合、費用は1テーブル(10人)あたりSGD 1,000〜2,500(約11.5万〜28.8万円)が相場だ。30テーブル(300人)規模の披露宴ならSGD 30,000〜75,000(約345万〜863万円)になる。
ボイドデッキでの披露宴なら、テント・テーブル・椅子のレンタル、ケータリング、音響を合わせてSGD 10,000〜25,000(約115万〜288万円)程度に収まることが多い。ホテルの3分の1から半額だ。この価格差が、ボイドデッキ婚を選ぶ最大の理由になっている。
婚礼と葬儀の距離
ボイドデッキで印象的なのは、結婚披露宴のテントと葬儀のテントが同じHDBブロックで同時に立っていることがある点だ。Aブロックの1階で赤い装飾の結婚式が行われ、隣のBブロックでは白い幕の葬儀が進行している。
日本人の感覚では「不謹慎では」と思うかもしれないが、シンガポールでは日常的な光景だ。むしろ、それだけボイドデッキが住民の生活に組み込まれている証拠だ。
葬儀は「3日間占拠」が標準
シンガポールの華人系(中華系)の葬儀では、ボイドデッキに3〜5日間テントを張る。遺体を安置し、僧侶や道士による読経を行い、毎晩弔問客を迎える。弔問客にはお茶と菓子が振る舞われる。
葬儀テントは夜遅くまで照明がつき、読経や音楽が流れる。上階の住民にとっては騒音だが、「お互い様」という暗黙の了解がある。自分の家族が亡くなった時も同じボイドデッキを使うからだ。
ただし近年は騒音苦情も増えており、Town Council(自治会に相当する組織)が夜22時以降の音量制限を設けるケースも出てきている。
マレー系・インド系の使い方
ボイドデッキの使い方は民族によって異なる。マレー系ムスリムの結婚式(ニッカー)では、ボイドデッキにカーペットを敷き、マレー料理のビュッフェを並べる。客はゆるやかに出入りし、新郎新婦に祝福を伝える「ウェディング・レセプション」スタイルだ。
インド系(タミル系)の葬儀では、ヒンドゥー教の司祭が儀式を執り行い、花輪と供物で飾られたテントが設営される。仏教式の華人系葬儀とは装飾も儀式の進行も全く異なるが、使われる空間は同じボイドデッキだ。
在住日本人はどう関わるか
HDBに住む日本人(駐在員でHDBを借りるケースや、PR取得後にHDBを購入するケース)は、ボイドデッキの葬儀や結婚式を目にする機会がある。自分のHDBブロックで行われている場合は、遠巻きに見るだけでなく、顔を出して挨拶する(弔問の場合は「お悔やみ」を伝える)と近隣関係がぐっと良くなる。
結婚披露宴の場合、近隣住民にも招待状が配られることがある。ご祝儀の相場はSGD 50〜100(約5,750〜11,500円)程度。出席して食事をいただくだけで、ローカルコミュニティへの参加として大きな意味を持つ。
「家の外だけど、家の延長」
ボイドデッキがこれだけ多くの機能を担えるのは、HDBの設計思想に遡る。シンガポール建国の父リー・クアンユーは、多民族が同じ空間で接触し、交流する仕掛けを都市設計に組み込んだ。ボイドデッキはその代表的な装置だ。
日本のマンションの1階にこれだけの空間があったら、管理組合が真っ先に「用途外使用禁止」を決議するだろう。シンガポールではそれが「当然の使い方」として許容されている。人生の節目を、自宅の真下の公共空間で迎える——この距離感は、シンガポールの住宅文化を理解するうえで見逃せないポイントだ。