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電気だけは自給をやめた国——シンガポールが2035年に3割の電力を輸入する決断

水は技術で自給し、土地は海を埋めて増やしたシンガポールが、電力については逆方向に舵を切った。2035年までに約6GW、需要の約3割を輸入する計画の裏にある論理を読む。

2026-10-05
エネルギー電力地政学インフラシンガポール

シンガポールという国は、足りないものを自分でつくることで有名になった。下水を飲料水に戻すNEWater、海を埋めて増やした国土、人工的に設計された多言語政策。すべて「外部依存を減らす」方向の話だ。

ところが電力については、この国は正反対の判断をしている。2035年までに、電力需要の約3割を国外からの輸入で満たす計画を立てているのだ。

エネルギー市場庁(EMA)が掲げる目標は、2035年までに約6ギガワットの低炭素電力を輸入すること。これは2021年に設定された4ギガワットの目標を1.5倍に引き上げた数字だ。オーストラリア、カンボジア、インドネシア、マレーシア、ベトナムからの輸入プロジェクトに対して、EMAは既に13件の条件付き承認を出している。

自給のロジックが電力では逆転する

水と電気はどちらも生活の基盤だが、依存のリスクの形が違う。

水は貯めておける。貯水池をつくり、海水を淡水化し、下水を再処理すれば、供給源を複数持ちながら在庫を積める。だから自給に投資する価値がある。

電気はほぼ貯まらない。バッテリーは高価で容量に限界があり、国全体の需要を数日支えるような規模では成立しない。つまり「自給」という言葉が、電力では水ほど強い安全保障にならない。国内に発電所を並べても、燃料が来なければ止まる。シンガポールの発電の大部分は天然ガスに依存しており、そのガスは輸入だ。

自国で発電しても燃料は外国から買っている。それなら、発電済みの電気を外国から買っても、依存の構造自体はそれほど変わらない——この見方に立つと、シンガポールの判断は自給からの転向ではなく、依存先の多重化に見えてくる。

送電線は「逃げられない契約」になる

ここに、砂や食料の輸入とは違う要素が入る。

国境を越える送電線は、一度敷いてしまうと動かせない。海底ケーブルを何百キロも引いたら、売る側も買う側も簡単には関係を切れなくなる。石油タンカーは別の国に行き先を変えられるが、送電線は物理的に相手が固定される。

これはリスクでもあり、担保でもある。輸出国にとって、シンガポールという安定して電気代を払う顧客は失いたくない存在だ。逆にシンガポールは、電気を止められたら困る。互いに人質を取り合う構造ができる。冷戦期の欧州がソ連からガスパイプラインを引いたときの議論とよく似ている。

だからこそ、輸入先を一国に集中させない。オーストラリアからカンボジアまで距離も政治体制もばらばらな5カ国を並べているのは、分散そのものが安全装置だという判断だ。

ラオスの水力が、マレーシアとタイを通って届く

この計画の原型は、2022年6月に始まった実証事業にある。ラオスの水力発電による電力を、タイとマレーシアの既存の送電網を経由して、最大100メガワットまでシンガポールに送るという仕組みだ。第2フェーズでは取引量が倍の200メガワットに拡大し、追加供給はマレーシア側から来る。

注目すべきは、この電気が国境を三つ越えているという点だ。ラオスで発電された電力がタイの送電網を通り、マレーシアを抜けてシンガポールに届く。途中の国は通過させることで送電料を得る。

国際送電網は、モノの貿易とは違う性質を持つ。原油は船に積んで運ぶが、電気は「隣の国の電線を借りる」しかない。つまり電力輸入は、地域全体が協調しないと成立しない。シンガポールが自分の電気代を払うために、東南アジアの送電網の統合を後押しする立場になっている。

小国が地域統合の触媒になる

ここが面白いところだ。

ASEAN全体の電力網をつなぐという構想は、数十年前から語られながら、なかなか進まなかった。理由は単純で、誰も最初に高い投資をしたくないからだ。送電線は片方だけ引いても意味がない。

そこに、確実に大量の電気を買う顧客が現れた。シンガポールの需要が、他の国にとって「投資が回収できる根拠」になる。電気を買いたいという一国の都合が、地域インフラを動かす資金の呼び水になっている。

小国が大国に意見を通す方法として、シンガポールは長年「ルールと信用」を武器にしてきた。電力の話では、そこに「確実な需要」という新しい武器が加わった形だ。

在住者の電気代はどう変わるか

実生活の視点で言えば、輸入が増えることの意味は二つある。

ひとつは、価格の変動要因が増えること。今の電気代は主に天然ガスの国際価格に連動している。輸入電力が3割を占めるようになれば、相手国の発電コストや為替、送電容量の制約も価格に混ざってくる。単純に安くなるとは限らない。

もうひとつは、電源構成が変わること。輸入される電力は水力・太陽光・風力といった低炭素源が中心だ。シンガポールは国土が狭く、太陽光パネルを敷く場所も風力の適地もほとんどない。「国内で再エネを増やす」という道が物理的に塞がれているから、外から再エネを買うという解を選んだ。

自国の面積の制約を、他国の面積で補う。土地を海から製造してきた国が、今度は電気を通じて他国の土地の日照と河川を借りている——そういう読み方もできる。

シンガポールで暮らしていると、電気は蛇口の水と同じくらい当たり前に出てくる。だがその当たり前が、2035年には赤道をまたいだ何本もの送電線と、五つの国との契約の上に立っているかもしれない。スイッチの向こう側の地図は、思っているより広い。

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