イサーン料理がバンコクを支配している——東北タイの食文化と出稼ぎの地図
バンコクの屋台でソムタムやガイヤーンを食べている時、それは「タイ料理」ではなく「イサーン料理」だ。東北タイからの出稼ぎ労働者が持ち込んだ食文化が首都を変えた構造を追う。
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バンコクで最も食べられている料理はパッタイでもトムヤムクンでもない。ソムタム(青パパイヤのサラダ)だ。バンコク都内だけで数万軒のソムタム屋台があるとされ、昼食の選択肢として圧倒的な存在感がある。ところがソムタムはバンコクの料理ではない。東北タイ——イサーン地方の郷土料理だ。
イサーンとバンコクの距離
イサーン地方はタイ東北部の20県からなる広大な農業地帯で、タイ全人口の約3分の1にあたる約2,200万人が住んでいる。しかしタイのGDPに占めるイサーンの割合は約12%に過ぎない。この経済格差が、何十年にもわたる大規模な出稼ぎを生んできた。
バンコクのタクシー運転手、建設作業員、家政婦、屋台の売り子——こうした職種の多くをイサーン出身者が担っている。彼らがバンコクに持ち込んだのが、イサーンの食文化だ。
ソムタム・ガイヤーン・ラープ
イサーン料理の三本柱はソムタム(青パパイヤのサラダ)、ガイヤーン(鶏の炭火焼き)、ラープ(挽き肉のハーブサラダ)だ。いずれもカオニャオ(もち米)と一緒に食べる。
バンコクの中心部、例えばシーロムやスクンビットのオフィス街でも、昼時になると路上にソムタム屋台が並ぶ。1皿40〜60THB(約170〜260円)。ガイヤーンを付けても100THB(約430円)以内で収まる。この「安くて量がある」という特性が、バンコクの労働者階級の胃袋を掴んだ。
味の設計が違う
イサーン料理がバンコクの他のタイ料理と決定的に違うのは、味のバランスだ。中部タイ料理(いわゆる「バンコク料理」)は甘み・酸味・辛みのバランスを重視するが、イサーン料理は辛み・酸味・塩味が前面に出る。甘さは控えめだ。
ソムタムの場合、バンコク向けにアレンジされた「ソムタム・タイ」はピーナッツと干しエビが入り、比較的マイルド。一方、イサーン本来の「ソムタム・プーパラー」にはパラー(発酵した魚のペースト)が入り、匂いも味も強烈だ。バンコクの屋台ではどちらも注文できるが、パラー入りを頼む客の多くはイサーン出身者だ。
食文化の階級構造
タイには食文化の階級意識がある。宮廷料理(アハーン・チャオワン)が最上位で、中部タイの家庭料理が中間、イサーン料理は長い間「田舎の食べ物」という位置づけだった。
この構造が変わり始めたのは2010年代だ。バンコクのレストランシーンでイサーン料理が「再発見」され、高級レストランがソムタムやラープをコース料理に取り入れ始めた。ミシュランガイド・バンコク版にもイサーン料理の店が選ばれている。「ジェイ・ファイ」はストリートフードの店としてミシュラン一つ星を獲得しているが、彼女のメニューにもイサーンの影響は色濃い。
日本人在住者とイサーン料理
バンコクに住む日本人がイサーン料理に日常的に触れる場面は多い。スクンビットのソイ38やシーロムのコンベント通りの屋台街では、ソムタムは定番メニューだ。
ただし辛さのレベルは注意が必要だ。「ペッ・マーク(辛くして)」と言わなくても、イサーン出身の作り手にとっての「普通」は日本人にとっての「激辛」であることが珍しくない。「マイ・ペッ(辛くしないで)」と伝えても唐辛子が3本入っていることはざらにある。ソムタムの辛さは唐辛子の本数で調整できるので、「プリック・ヌン・メッ(唐辛子1本)」と具体的に言うのが確実だ。
バンコク=イサーンの胃袋
バンコクの食の地図を書くと、イサーン料理を抜きには成り立たない。首都の食文化を形成しているのは、宮廷料理でもチャイナタウンの中華でもなく、東北部から出稼ぎに来た人々の日常食だ。ソムタムの屋台を見るたびに、そこにはバンコクとイサーンをつなぐ人の流れが見えている。