荷物が届かない国から、届く国へ——タイの配送が10年で変わったこと
住所が読み解きにくく、郵便が信用されていなかったタイで、EC配送が急速に整った。電話番号が住所の役割を代替した経緯を追う。
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バンコクで通販を頼むと、配達の一時間ほど前に電話がかかってくることがある。ドライバーからだ。「これから行くが、建物の場所が分かりにくい。今どこにいるか教えてくれ」
日本では起きない会話だ。日本の宅配は住所を頼りに動く。住所さえ正しければ、ドライバーが荷主に電話をかける必要はない。
タイでは、住所だけでは足りないことがある。
住所が「経路」を教えてくれない
バンコクの住所は、大通りの名前と、そこから枝分かれする路地の番号、そして建物の番号で構成される。理屈の上では特定できる。
だが実務上は難しい。路地はさらに枝分かれし、建物の番号は必ずしも順番に並んでいない。同じような名前の通りが複数ある。新しい建物が既存の番号体系の隙間に入る。
日本の住所も海外の人からは分かりにくいと言われるが、少なくとも街区の中で番号は一定の規則で振られている。タイの都市部の番号は、開発の順序を反映していることが多く、地理的な連続性とは対応していない。
つまり、住所は「そこがどこか」を示すが、「どうやって行くか」は教えてくれない。
電話番号が住所を補完した
この問題を解決したのが、住所の精緻化ではなく、通信だった。
配達先の電話番号を必ず取る。ドライバーは近づいたら電話をかける。受け取る側が口頭で誘導する。あるいは地図アプリでピンを送る。
住所の情報の欠落を、リアルタイムのやりとりで埋める設計だ。静的なデータベースを完璧にする代わりに、動的な通信で補う。
これは工学的には興味深い解法だ。地図情報の精度を上げるには膨大な投資が要る。だがスマホが普及していれば、位置の共有はほぼ無料でできる。既に普及した安いインフラで、整備が高くつくインフラを代替した。
タイの決済がカードを飛ばして銀行送金に跳んだのと、同じ形の跳躍が物流でも起きている。整備に金がかかる層を作り直さず、既に全員が持っているものの上に別の層を重ねる。
受け取れないという別の問題
住所が分かっても、次の壁がある。日中に家に人がいるとは限らない。
タイの都市部では、コンドミニアムのフロントが荷物を預かる運用が広く行われている。ドライバーはフロントに渡し、住民は帰宅時に受け取る。集合住宅の管理体制が、そのまま物流の末端を担っている。
コンビニでの受け取りも普及している。全国に張り巡らされたコンビニ網が、荷物の一時保管所として機能する。店舗密度の高さが、そのまま配送の受け皿の密度になる。セブンイレブンが単なる小売ではなくインフラとして機能しているのは、こういう転用がいくつも重なった結果だ。
つまりタイの配送網は、自前で末端の拠点を作る代わりに、既にあるものを使っている。コンドミニアムのフロント、コンビニ、屋台。都市に既に存在する常時人がいる場所が、荷物の中継点に転用されている。
代金引換が支えたEC
もう一つ、タイのECの拡大を支えたのが代金引換だ。
オンライン決済への信頼が十分でない段階では、先に金を払うことに抵抗がある。品物が届かないかもしれない、違うものが来るかもしれない。この不安が、EC普及の最大の障壁になる。
代金引換は、その不安を消す。品物が目の前に来てから払う。売り手が持ち逃げできない構造になっている。
信頼が制度によって担保されていない市場では、信頼を必要としない取引設計が普及する。代金引換は、その典型だ。金融インフラの未成熟を、商慣行で補っている。
在住者としての実務
タイで通販を使うとき、押さえておきたいことがいくつかある。
配達先の電話番号は必ず正確に入れる。これが機能しないと、配達が完了しない可能性がある。住所欄には、建物名や目印になるものを書き添えておくと通りが良くなる。「〇〇銀行の向かい」「セブンの隣の路地を入って三軒目」といった、地図ではなく経路の言葉を足すのが実際に効く。
コンドミニアムに住んでいるなら、フロントが荷物を預かるかどうかを確認しておく。預かる場合、部屋番号を明記しないと本人に届かない。
日本からの国際便を受け取る場合は、関税と手続きが別の問題として出てくる。品目と金額によって扱いが変わり、制度は改定されうるので、送る前に最新の規定を確認してほしい。
10年前と今を分けるもの
タイで長く暮らしている人ほど、この10年ほどの配送環境の変化を実感として語る。以前は届かないこともあった、遅れるのが普通だった、と。
今はそうではない。都市部なら、注文した翌日か翌々日には届くことが珍しくない。
住所の体系を作り直したわけではない。通りの番号は相変わらず分かりにくい。変わったのは、その分かりにくさを回避する手段が、全員のポケットに入ったことだ。
インフラの整備には二つの道がある。土台を作り直す道と、既にあるものの上に別の層を重ねる道。タイが選んだのは後者だった。