バンコクの野良犬は住所を持っている——タイの動物共存システム
タイには推定約300万頭の野良犬がいるとされる。しかし多くは特定の寺院やソイ(路地)に定住し、地域住民に餌をもらい、名前までつけられている。殺処分ほぼゼロの国で成り立つ共存の構造を見る。
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バンコクのソイ(路地)を歩いていると、歩道で堂々と寝ている犬に出くわす。よけて通る人間の方が気を使っている。その犬には大抵、近所の屋台のおばさんが毎朝ご飯をあげている。名前もある。首輪はないが「誰の犬でもないけど、ここの犬」という不思議なステータスで存在している。
仏教と「タンブン」が作る構造
タイで野良犬が殺処分されない最大の理由は仏教だ。仏教の教えでは命を奪うことは重い罪(パーパ)とされ、動物に食べ物を与えることは功徳(タンブン)になる。この信仰が社会の隅々まで浸透している。
寺院は野良犬の最大の「受け入れ先」だ。バンコクだけで約450の寺院があり、その多くに5〜20頭の犬が住み着いている。僧侶の托鉢で余った食事が犬に回る。寺院側も犬を追い出さない。追い出すこと自体がタンブンに反するからだ。
ソイドッグの領土意識
タイの野良犬には明確な縄張りがある。ソイ23の犬はソイ25には行かない。この領土意識は人間社会にとって便利に機能することがある——見知らぬ人が深夜にソイに入ると犬が吠える。防犯の役割を果たしているのだ。
逆に言えば、そのソイに住んでいる人には吠えない。顔と匂いを覚えている。バンコクで引っ越した直後、新しいソイの犬に吠えられるのはよくある話だ。1〜2週間で慣れて吠えなくなる。人間が犬に「住民登録」を済ませるような感覚だ。
狂犬病のリスクは現実にある
タイは世界でも狂犬病の発生が多い国の一つだ。タイ公衆衛生省の報告によれば、年間数件の狂犬病による死亡例がある。WHOはタイを狂犬病「高リスク国」に分類している。
バンコク在住の日本人が知っておくべきは、噛まれた場合の対応だ。まず傷口を石鹸と水で15分以上洗う。そしてできるだけ早く病院でPEP(暴露後予防接種)を受ける。バンコクの私立病院ではPEPが1回500〜1,000THB(約2,150〜4,300円)、5回接種で完了する。タイ赤十字社のスネークファーム(Queen Saovabha Memorial Institute)は外国人にもPEPを安価で提供しており、1回200THB程度。
「タイの犬はおとなしいから大丈夫」と油断しないこと。見た目が穏やかでも、子犬の近くや食事中の犬に不用意に近づくと攻撃されることがある。
TNR——「殺さない管理」の挑戦
タイ政府とNGOが進めているのがTNR(Trap-Neuter-Return:捕獲・不妊手術・元の場所に戻す)だ。Soi Dog Foundationはプーケットを拠点に、2003年の設立以来20万頭以上のTNRを実施してきたとされる。
TNRを受けた犬は耳の先端がV字にカットされる。バンコクの街中で耳カットのある犬を見かけたら、それは不妊手術済みの個体だ。この耳カットの有無で、その地域のTNR普及率がざっくりわかる。スクンビット周辺では体感で3〜4割の犬に耳カットがある。チャオプラヤー川の対岸、トンブリー側ではまだ少ない。
猫はどうしているのか
タイの野良猫は犬ほど目立たない。理由は生態の違いだ。猫は夜行性で日中は隠れている。それでもコンドミニアムの駐車場や屋上で猫のコロニーが形成されていることは珍しくない。
猫についても殺処分は行われない。タイでは「猫を飼うとお金が貯まる」という言い伝えがあり、特にシャム猫(ウィチアンマート)は縁起物として大切にされる。
共存のコストと限界
タイの動物共存システムは、宗教的価値観と社会的寛容さの上に成り立っている。しかし課題もある。放し飼いの犬による交通事故は年間数千件。犬の糞害も日常的な問題だ。観光地で犬に追いかけられた外国人観光客の苦情も絶えない。
それでもこの国は「排除」ではなく「共存」を選び続けている。合理的かどうかは別として、街に犬がいる風景がタイの日常であり、在住者はこの環境に自分を合わせていくことになる。