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30バーツで全部治る国に、外国人は入れない——タイの国民医療保険が線を引く場所

タイの国民皆保険は中所得国の成功例として世界的に評価されている。だがその制度に在住外国人は入れない。誰を含め誰を外すかの線引きから、この制度の成り立ちを読む。

2026-10-05
医療保険社会保障制度在住外国人タイ

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タイには、世界の公衆衛生の教科書に載っている制度がある。

ユニバーサル・カバレッジ・スキーム(UCS)。通称「ゴールドカード」、そして「30バーツで全部治る」と呼ばれた制度だ。2002年にタクシン政権下で本格導入され、それまで公務員医療給付制度と社会保険のどちらにも入っていなかった約4,500万人を医療保険の網に入れた。受診時の自己負担は一律30バーツ(約147円)。12歳未満の子ども、60歳以上の高齢者、極貧層、保健ボランティアは免除された。

中所得国が国民皆保険を実現した事例として、この制度は国際的に高く評価された。ところが、タイに長期滞在している日本人はこの制度に入れない。

長期滞在ビザを持っていても、タイに住所があっても、原則としてUCSの対象にはならない。この線引きがどこから来ているのかを考えると、この制度の性質が見えてくる。

財源が税金だから、納税者ではなく国民を対象にする

UCSの財源は税金だ。保険料を集めて給付する仕組みではなく、一般財源から支出される。

これは設計上、決定的な意味を持つ。保険料方式なら、払った人に給付するという対応関係がつくれる。外国人でも保険料を払えば加入できる、という制度設計が自然に成り立つ。

税方式はそうならない。原資が国全体の税収だから、誰に配るかは政治的な決定になる。そして政治的な決定の単位は、有権者であり国民だ。

在住外国人はタイで消費税を払い、働いていれば所得税を払っている。納税しているのに給付は受けられない。この不整合は、税方式の国民皆保険にほぼ必然的についてくる。日本の国民健康保険が住所を基準にしているのは、あちらが保険料方式だからだ。原資の性質が、線引きの基準を決めている。

移民労働者には別の制度が用意されている

ただし、タイは外国人を一律に排除しているわけではない。

移民労働者向けには、ヘルス・インシュアランス・カード・スキームという別の制度がある。登録・未登録を問わず移民労働者とその家族に基礎的な医療を提供し、感染症のスクリーニングも行う。保険料は年間で大人1,600バーツ(約7,840円)、子ども365バーツ(約1,789円)と意図的に低く設定されている。

なぜ安いのか。公衆衛生の論理だ。

結核や麻疹といった感染症は、国籍を見て感染先を選ばない。国内に無保険の集団が数百万人いれば、その集団で発生した感染症は国民にも広がる。つまり移民の健康は、移民のためだけでなく国民のための投資になる。

保険料を低く抑えているのは、未登録の労働者を制度の側に引き寄せるためでもある。高い保険料を設定すれば、誰も入らない。入らなければ、どこに誰がいるかも分からない。安く売って全員を名簿に載せるほうが、公衆衛生の目的には合う。

これは価格設定の話として面白い。通常の保険は、リスクに応じて保険料を上げる。この制度は逆で、対象を捕捉するために価格を下げている。目的が収支ではなく、把握と予防に置かれている。

正規雇用なら社会保険に入る

もう一つの経路が、社会保障基金(SSO)だ。

タイで労働許可証を持ち、雇用主に登録されて働いている外国人は、タイ人と同じ義務を負う。従業員と雇用主がそれぞれ月給の5%を拠出する。この拠出の算定基礎額の上限は、2026年1月に月15,000バーツ(約73,500円)から17,500バーツ(約85,750円)に引き上げられた。これにより一方あたりの月額拠出上限は750バーツ(約3,675円)から875バーツ(約4,288円)になった。政府の段階的な改革計画では、この上限は2029年1月と2032年1月にも引き上げられる予定とされている。

つまり、タイで正規に雇用されている日本人は、この社会保険には自動的に入っている。就労中に自分の判断で抜けることはできない。給与明細に載っている控除がこれだ。

指定された病院で受診すれば、この制度でカバーされる。ただし指定病院は自分で選ぶ必要があり、その病院以外での受診は原則対象外になる。在住者が実際に困るのはここで、指定病院が生活圏から遠いと、実質的に使えない保険になってしまう。

リタイアメントとリモートワークが制度の隙間に落ちる

整理すると、タイの医療制度における外国人の位置はこうなる。

正規雇用されている人は社会保険に入る。移民労働者として登録されている人には移民向け保険がある。国民にはUCSがある。そしてこのどこにも入らない層——リタイアメントビザの退職者、LTRビザのリモートワーカー、駐在員の帯同家族、観光客——は、民間保険か自己負担になる。

この層は、タイの制度設計が想定していた対象ではない。UCSが設計された2000年代初頭、タイに長期滞在する外国人の数は今より少なく、リモートワークという働き方もほぼ存在しなかった。制度の隙間は、悪意ではなく時代のずれから生まれている。

一方でタイ政府は、この層に対して医療保険の加入を要件化する方向に動いてきた。ビザの種類によって付保証明を求める規定が増えている。制度に入れない代わりに、自分で備えることを条件にする。合理的な対応だが、在住者からすると保険料を毎年見直す作業が増えるという意味でもある。

誰を含めるかは、制度が何のためにあるかを表す

UCSは「国民のため」の制度だ。移民向け保険は「感染症を止めるため」の制度だ。社会保険は「労働市場を回すため」の制度だ。それぞれ目的が違い、だから対象が違う。

タイの私立病院が国際的な医療ツーリズムの拠点になっていることを考えると、この構造はさらにねじれて見える。世界中から患者を集めて高度な医療を提供する病院が並ぶ国で、その国の国民皆保険には外国人が入れない。医療の輸出産業と国内の社会保障が、別のレイヤーとして並走している。

30バーツという金額は、制度の象徴として語られ続けてきた。だがその30バーツは、誰にとっての30バーツなのか。そこまで含めて見ると、この有名な制度の輪郭が少し違って見えてくる、という読み方もできる。

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