アメリカ人が転職できない本当の理由は、健康保険だ
アメリカの労働者の53.8%は雇用主経由で健康保険を持つ。「職場を変えると保険を失う」という構造が、キャリアの自由を制限している現実を読む。
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「こんな会社、今すぐ辞めたい。でも保険が……」——アメリカの職場でこの会話を聞いたことがある人は多いはずだ。「Job Lock(ジョブロック)」と経済学者が呼ぶこの現象は、30年以上前から研究されており、今も消えていない。
53.8%が雇用主経由の保険に依存
米国国勢調査局のデータ(2024年)によると、アメリカ人の53.8%が「雇用主提供の健康保険(Employer-Sponsored Insurance、ESI)」で健康保険をカバーされている。
他国と比較すると、この数字の異質さが際立つ。イギリスではNHSが全員をカバーし、フランスでは社会保険が基本、日本でも国民健康保険・社会保険という公的制度が軸だ。医療へのアクセスが「誰のために働いているか」と連動しているのはアメリカの独自性だ。
コストも桁違いだ。カイザーファミリー財団(KFF)によると、2024年の雇用主提供の家族向け健康保険の年間保険料の平均は25,572ドル(約383万円)で、前年比7%増加した。このうち労働者の自己負担分は平均6,296ドル(約94万円)で、残りは雇用主が負担する。
退職や転職の際に保険を自費継続するCOBRA(連邦法上の権利)を使う場合、その保険料全額——雇用主負担分含む——を自分で払うことになる。個人で月400〜700ドル(約6万〜10.5万円)、家族では月1,500ドル前後(約22.5万円)になる計算だ。
「Job Lock」とは何か
1980年代から経済学者が注目し始めた「Job Lock」は、雇用主提供の健康保険が労働者の転職意欲を抑制するという現象だ。
研究のレビューでは、雇用主経由の保険を持つ労働者の転職率は、保険を持たない労働者より20〜40%低いとされている。別の研究では「健康保険が必要だから今の仕事を辞められない」と答えた労働者が78%に上った調査もある。
2024年の新しい研究では、急性の健康問題(急患・入院)を経験した家族の場合、1年以内に健康保険ネットワークを変える確率が7〜14%下がると推計されている。つまり「病気になったタイミングで最も転職しづらくなる」という皮肉な構造だ。
スタートアップエコノミーへの影響
「アメリカは起業家精神に満ちた国だ」という通説は、健康保険の問題と重ね合わせると少し違う景色を見せる。
アメリカで起業するということは、雇用主提供の保険を失うということだ。個人事業主や小企業経営者が健康保険市場(ACA、通称オバマケアのマーケットプレイス)で個人として加入すると、大企業社員と同等の保障を得るために年間1万〜2万ドル以上(約150〜300万円)を支払うケースが多い。
「良いアイデアはあるけど、保険が怖い」という理由で起業を先送りにする潜在的起業家が相当数いると推測する経済学者もいる。アメリカが「世界で最もスタートアップが生まれやすい国」であると同時に「健康保険の問題が起業の最大のハードルのひとつ」という逆説は、制度設計の歪みを示している。
ACAの影響と残存するギャップ
2010年に施行されたACA(患者保護および医療費負担適正化法、通称オバマケア)は、Job Lockの問題を緩和しようとした制度でもある。個人が雇用主に依存せずに保険を購入できるマーケットプレイスを整備し、既往症による加入拒否を禁止した。
しかしACA後も、雇用主提供の保険の方が個人購入の保険より安いケースは多い。雇用主は一定の補助を出しており、個人が同等の保障を自力で調達するコストはより高くなりやすい。Job Lockは緩和されたが消えてはいない。
2024年のアメリカの無保険率は8.0%で、2020年(9.7%)より低下した——が、依然として2,700万人超が無保険状態にある。働く世代(18〜64歳)に限ると無保険率は11.6%になる。「働いているのに無保険」という状況は、フルタイムと非正規・パートタイムの保険格差が大きいことを反映している。
「どこで働くか」が「どんな医療を受けるか」を決める
日本から渡米した人がまず驚くことのひとつに、会社の選択肢を検討するときに「どの保険プランを提供しているか」が条件に入ることがある。採用面接で保険の詳細を聞くのは珍しくない文化だ。
日本では「病院に行くかどうか」は自分で判断する問題で、どこの会社に勤めていても国民健康保険か社会保険かを通じて一定の保障がある。その構造が当たり前すぎて「別の設計もありえた」とは想像しにくいが、アメリカは別の答えを選んだ社会だ。
そしてその答えは、転職の自由を保険リスクと引き換えにしている。
主な参照データ: 米国国勢調査局「アメリカの健康保険カバレッジ2024」、カイザーファミリー財団(KFF)「2024年雇用主健康保険調査」、全国雇用法プロジェクト「雇用主保険と転職の関係」研究、ASPE「2024年第1四半期の無保険率」