日系アメリカ人の強制収容——歴史が語る在米日本人の経験
第二次世界大戦中、12万人以上の日系アメリカ人が強制収容所に送られました。この歴史的事実は在米日本人として知っておくべき重要な背景です。
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1942年2月19日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が「大統領令9066号(Executive Order 9066)」に署名した。この命令は直接「日系人を収容せよ」とは書いていない。しかし軍が「排除区域」を指定し、その中に住む人を強制移送することを可能にした。
結果として約12万人以上の日系アメリカ人(その多くはアメリカ市民権を持つ二世・三世)が、カリフォルニア・ワシントン・オレゴン州などの西海岸から強制収容所に送られた(米国国立公文書館等の歴史記録を参照)。
なぜ起きたか
1941年12月7日の真珠湾攻撃後、アメリカ社会における反日感情は急速に高まった。「日本系の人々はスパイかもしれない」という根拠の薄い恐怖と、戦前から続いていた人種差別が合流した。
市民権を持っていても、財産を所有していても、英語を母語として話していても、「日本人の血を引く」というだけで収容の対象になった。ドイツ系・イタリア系の人々が同様の扱いを受けなかったことは、人種的な偏見が政策に影響したことを示している。
収容所での生活と抵抗
マンザナー(カリフォルニア)、トパーズ(ユタ)、ハート・マウンテン(ワイオミング)など10か所以上の収容所が設けられた。バラック(兵舎)に家族単位で収容され、農業・裁縫などの作業をしながら生活した。
多くの収容者が自分の土地・財産・ビジネスを失った。一部の若い日系二世は収容中に徴兵を拒否して起訴されたが、多くはアメリカへの忠誠を示すために自ら軍に志願した。第442連隊戦闘団は日系人中心の部隊として、ヨーロッパ戦線で多くの勲章を受けた。
1988年の謝罪と補償
1988年、レーガン大統領が「市民的自由法(Civil Liberties Act of 1988)」に署名した。政府は強制収容を「人種差別と戦時ヒステリーに基づいた不当な行為」と認め、存命の収容経験者に2万ドルの補償金と公式謝罪を行った。
在米日本人として知ること
強制収容は過去の話だ。しかしこの歴史を知ることは、在米日本人として「自分が置かれている社会的文脈」を理解するために重要だ。
戦後、日系アメリカ人コミュニティは確実に社会に復帰した。ロサンゼルスのリトル・トーキョー、シアトルのインターナショナル・ディストリクト——コミュニティは今も生きている。過去があって今がある、という事実を背景に持つことで、日本人在住者としての立ち位置が少し見えてくる。